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No.021 フジヤ酒店の思い出(1)内山さん

フジヤ酒店の思い出(1)内山さん


昭和40年代以降の昭和、高度成長とその余韻も残る頃の話です。店内の小さなスペースで、コップ酒を提供する酒屋は、普通と言っても良かったと思います。酒屋にとっては利益率のいい方法でした。うちでは「立ち飲み」と言ってました。「もっきり」「角打ち」…いろいろな言い方があるようです。

フジヤ酒店の左手店頭には、お酒の自動販売機が二台、間をおいて置かれ、その間を人一人、体を横にして入ると、テーブルがあります。小さなシンクのそばに、一合コップが6個ほど置かれています。乾き物のおつまみも見えます。値段表が貼られていて、上から一級酒・二級酒・合成酒・焼酎・ウイスキーと書かれています。以前、清酒は一級酒・二級酒との区別があったのです。四人も入ればいっぱいの広さです。老若男女の「女」がない世界でした。職人さんや、近所の中小企業で働いている方が多かったです。いわゆる社会的地位が高い方は稀でした。み〜んな、愛すべき人たちでした。

お酒をたしなまない自分にとっては、信じられない飲み方をするお客さんも多かったです。コップいっぱいの二級酒を、今で言う一気飲みです。25度の焼酎でもクッと飲み、スッと帰っていく。注文とそれを受けるだけの会話、挨拶も最低限「どうも」「ありがと」くらいでしたか。仕事の途中に来るお客さん。一日何回も来る方。大きな病院が近くにあり、入院中の方も飲みに来ました。ホントはダメでしょうね(笑)。

親しくなって話しをしていくお客さんも多かったです。本人の前では名字で呼ぶ事がほとんどでしたが、由理くんとの間であだ名をつけて楽しんでいました。ひどいですね(笑)。「現代の学生」酔っ払ったときに、オレたちゃ現代の学生だ〜と、言った後につけました。「美と健康」口癖が、美と健康が大事だよ、でした。「サケーノ・チィンチェーノ」小さめのコップもあり「酒の小さいの」と注文するのですが、滑舌が良くないと言うか、独特の口調でしたので、イタリア語に引っかけて命名しました。「ヘナ内さん」体の動かし方が前かがみで、ヘナっとした感じと苗字の内山さんにかけたあだ名でした。仕事の帰りに時々寄っていただきました。

今日は「ヘナ内さん」こと、内山さんについて触れてみます。私よりも10歳くらい年上です。当時、近所には小さな製本工場が結構ありました。従業員は5・6人ほどだったでしょうか。内山さんは、お兄さんの経営していた製本工場で働いていました。連れ合いの由理くんが「内山さん」と言わずに「ヘナ内さん」と繰り返しても、気にもかけていないのか、会話が続き、笑いをこらえたことも良き思い出です。

私の趣味の一つがマジックです。浪人時代に、日本橋三越のマジック売り場で実演販売をしていました。歴代のアルバイトで抜群の売り上げでした。自慢してしまいました。気が向いたとき、立ち飲みのお客さん相手に、簡単なマジックをする事がありました。マジックバーのはしりのような事をしていたのですね。内山さんは、かなり「食いつき」のよいお客さんでした。「いや〜、面白いねえ〜」ちょっと体を前に倒しながら、ヘナっと言います。「自分も、ちょっとしたいなあ〜。教えてもらえないかなあ〜」

お店の終了後、夜の10時過ぎから、週に一二度トランプや小さなものを使って演じるクロースアップを教えました。お金はいただきませんでした。「生徒」の内山さんより「先生」の私の方がずっと楽しんでいる感じでした。今に通じている感覚です。結構本格的なものも教えました。「小野マジック教室」は一年以上続きました。「いや〜、小野さんありがとうね〜。一生の趣味になったよ〜」ヘナっと言ってくれています、今も。

酒屋商売から転身、38歳で大学入学、卒業後、塾を始めることになったとき、内山さんが言ってくれました。「小野さん、塾って紙をたくさん使うんじゃない?工場(こうば)で、余り紙が出るから、好きなサイズに切って持ってきてやるよ」

塾を始めて10年間、内山さんが退職するまで、紙を購入する事はありませんでした。どのくらいの金額になるのでしょうか、買ったら。マジックの教授料金を遥かに超えると思います。ここでは、お金の話はヤボですね。生徒が言いました。「ここの紙って、いろんな色だったり、紙の質が違うよね?」にっこり笑って答えます。「素敵だろ?」

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