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No.011 村上一枝さん

No.011 村上一枝さん

2000年初頭より日本経済新聞夕刊に数ヶ月掲載された「ミドルからの出発」は大変興味深く、刺激満点であった。タイトルから想像できるように、ミドルエイジ以降大きく生活基盤を変えられた方々の生き様を紹介するものであった。村上一枝さんを、このコラムで知った。

記事の冒頭である。
「村上一枝が、新潟市内で開業していた小児専門歯科医院と、愛車のボルボを売り、新しいスタートを切ったのが1989年。49歳だった。その売却代金180万円を活動資金にしてアフリカ西部のマリに渡り、以後、現地の農村の生活改善のため、息の長い援助活動を続けている。・・・」

記事の中に西アフリカ農村自立協力会(略称カラ=CARA)の連絡先などはない。翌日、日本経済新聞に電話をして、電話番号を教えてもらう。電話を入れると、村上さんが出られた。記事を読んだ旨伝えると「まあ、お恥ずかしい」と若々しい声が耳に届いた。

それ以降、ささやかな支援を続けさせて頂いている。電話での初めての挨拶以来、直接お会いすることも、お声をお聞きすることもなく、村上一枝さんは、日経新聞のイラストのショートカットの面長の方であった、自分の中では。

八王子での講演なら足を運べる。初めてお目にかかる機会を持てる。講演当日、会場に入り、確信はないものの一人の婦人に声をかける。「村上さんでいらっしゃいますか?」「ああ、小野さん?」馴染んできたイラストから作った勝手なイメージの女性ではなかった。力強い、こちらも勝手な第一印象だ。村上さんも、こちらをイメージしていらっしゃったのだろうか?聞いてみたい気もする。義理の挨拶無しに分かり合えたのは嬉しかった。コラム記事の上にサインをお願いした。まあ、嫌だわと言うように右手を振り、微笑みながら「ご支援ありがとうございます 村上一枝」と書かれた。やはり、力強い字であった。記事のイラストのお顔が、キリッと語りかけてきたような。「あなたも頑張ってね!」「はい」
新聞掲載から、13年の時が刻まれていた。


ミドルからの出発(29)

マリで援助活動 

村上一枝(むらかみ・かずえ)さん 
1940年生まれ。65年日本歯科大学卒業。84年新潟市に小児専門歯科医院開設。89年マリに渡り、農村の生活改善運動を展開。現在、西アフリカ農村自立協力会代表理事。59歳。

村上一枝が、新潟市内で開業していた小児専門歯科医院と、愛車のボルボを売り、新しいスタートを切ったのが1989年。49歳だった。その売却代金180万円を活動資金にしてアフリカ西部のマリに渡り、以後、現地の農村の生活改善のため、息の長い援助活動を続けている。
東京・吉祥寺に日本事務所を置く西アフリカ農村自立協力会(略称カラ=CARA)の代表理事。これが現在の村上の肩書。活動の拠点はマリのバグブ村などの農村部で、マラリヤの予防、識字教育、裁縫や植林、野菜作りの指導、手押しポンプ付き井戸や穀物粉砕機の設置などを通じ、現地の人々の生活の自立をバックアップしている。

最近は、一年のうち半分を現地の農村で過ごす。後は、日本国内を回り、活動報告をしながら、資金面で援助してくれる会員(年会費1万円)を募ったり、国や民間の援助資金集めをしたりしている。
村上の人生を眺めると、歯科医院からの転身劇がなぜ起きたのかに、どうしても関心が行ってしまう。
当時、この決断に親や姉妹、知人たちは驚いた。だが、本人はそれまでの人生を振り返りながら、たんたんと話す。「決して突然のできごとではないんです」
岩手県宮古市で育った幼いころ、シュバイツァーの伝記を読んだ。「転んでいた人がいたら、助け起こす」という彼の行動が心に深く刻み込まれた。
日本歯科大学を卒業して、28歳で結婚。37歳の時に大学の教員である夫がカナダに留学したのに同行。ここで移民の問題などを通じて途上国の問題に関心を持つようになった。

帰国後、41歳で離婚。四年後、新潟市郊外に、小児専門の歯科医院を開業。繁盛した。だが、親たちを通じて歯の健康教育をしようとしても、「金さえ出せば」という母親の非協力的な姿勢が壁になり、うまく進まない。そんな折に、「こんなことやっていていいのか」という疑問が膨らんでいった。
同時に、胸の中で強くなったのが、「転んでいる人がいたら、助け起こす」という考えだった。行動までの経緯を、こんなふうに説明する。
「地球上には、今、いろんな人が生きている。自分たちだけが恵まれた生活をすればいいという国境を、心に設けるのはよくない。グローバルな考えを持って行動を起こす必要がある。ます実践してみよう」
マリを選んだのは、前に旅行して、実情をつかんでいたからだ。それにしても歯科医院を廃業してからわずか一ヶ月で、アフリカに旅立つ行動は、驚異的素早さだった。

夫も子供もいない身軽さもある。でも、その行動力の最大の原動力になっているのは、中年期まで体内で育ち、もう抑えられなくなった人生哲学。シュバイツァーの「転んでいる人がいたら、助け起こす」という考えだったのである。                      =敬称略
(編集委員 足立則夫)



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