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No.160 「2回目の人生」フジヤ酒店の思い出(4)東京の片隅の酒屋、トキ子さん登場

No.160 「2回目の人生」フジヤ酒店の思い出(4)東京の片隅の酒屋、トキ子さん登場

No.156の続きです)

1964年開催の東京オリンピックの興奮が収まりきっていない翌年くらいのことであったか、東京都23区の北西部埼玉県との境に位置する板橋区の片隅「中板橋」の小さな酒販店を手放したい方がいて、父武は東京のある酒問屋さんからその話を聞いた。福島県いわき市で製造していた清酒「長生」を納品していた関係から得た情報であった。

その当時、酒販店を手放すのは稀な話であったことは、国家の「税収入」の歴史と関係があり、20数年後に僕が酒屋商売を離れることとも関係がある。大きく見れば、現在のコンビニエンスストアの隆盛とも関係が深く「酒屋さん」を営んでいた多くの同業者たちが時代の波の中で翻弄された。酒類販売が他の業態と異なっているのは、「酒」すなわちアルコール飲料の特殊性ゆえ、製造及び販売の「免許」が、洋の東西を問わず国家によって統制されることであり「免許」は国家の「税収入」に繋がる。

現在、日本の税収の多くを占めるのは所得税や法人税などの直接税、そして1989年(平成元年)に導入された間接税の一つ消費税である。今や国税収入の4%に満たない酒税であるが、1950年には18.5%を占め、1935年に所得税に抜かれるまで、長く国税収入のトップであった。それ故にであろう、国税局は「酒類販売業者」を「免許制度」で守り、安定した税収を確保する必要があったし、それに答えるように「免許制度」を守りたい「酒販店組合」が存在していた。

板橋区中板橋にあった「フジヤ酒店」は、藤田さんを代表とする有限会社の形式を取っていた。池袋辺りの飲食店などを顧客に持ち、それなりの売り上げもあったらしい。しかし、売掛金の回収に失敗、いわゆる「焦げ付き」ができて、何やら息子さんの問題もあったとかで、店を手放したいとなっていた。

中板橋の「フジヤ酒店」は、30坪そこそこの土地に木造平屋で建つ侘しげな店構えで、夏の蒸し暑さに道は陽炎を浮かべ、経営者の藤田さんは酒問屋の営業マンと父武を迎えた。数百坪の土地に立つ福島の家に比べれば、貧弱とも言える店であったが、片隅とはいえ板橋も首都東京の一部であり、その安定性ゆえ酒販店を始めたい人は数多いる中、手放したい話は、当時そうそうある話ではなかった。

今となっては具体的な金額は分からないが、築数十年の建物はともかくも、東京の土地付き「酒類小売販売付きの有限会社」取得の案件である。事業家の顔も持っていた父武と、肝の座っていた母ユウ子も軽々と決める案件ではなく、二人で先祖の意見も聞こうかとの「神頼み」の「くじ引き」もしたのだった(No. 156)。

「フジヤ酒店」いや「有限会社藤宗商店」を譲り受ける案件は順調に進んだ。酒類小売業の「免許(許可)」は、「販売の場所」と「販売者(個人もしくは法人)」に与えられる。販売の場所に関する規制は厳しく、直近の販売所から100mから150mの距離が必要との制限がある。「販売者」が個人であれば、特に問われることもない。「酒屋さん」の子息は、酒に関する知識が無くとも「酒屋さん」になれる訳だ。法人であれば代表者が酒類販売に関わった年数などが問われた。この点でも酒造業を営んでいた父武は問題はなかった。

父武は福島と東京を仕事で行き来していた。母ユウ子は小中生三人の子育てもあり「フジヤ酒店」に行くわけにもいかない。実際問題として「フジヤ酒店」を運営していくには新たな人材が必要だった。

「ごめんください」福島の実家の玄関先にハキハキと高いトーンの声がした。「はーい」と返事をして僕が小走りに玄関先に向かった。薄手の紺色のカーディガンを羽織った長身の、背筋をピンと伸ばし、長くはないが髪を後ろに軽く束ねた色白の顔は、ちょっと自分にも似ている女性が、そこに立っていた。女性は、ニコリともせずに「シンヤくん、かな?お父さんかお母さんはいるかな?」30歳以上年上の従姉妹(いとこ)トキ子さんと初めて会ったのは、夏でも冬でもなかった。春だか秋だかの日に「トキ子さん」に感じたのは、その話し方からか、姿勢の良さから受けた印象か「真っ直ぐ」だった。

・・・続く

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