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No.015 トーク・ツゥ・ハー続き

No.015 トーク・ツゥ・ハー続き

「外国」の言葉が意識の中に入ってきたのは、小学生の時だったろうか。世界地図を学習してから?道で肌の色の違う人とすれ違ってから?はっきり言えるのは「洋画」イコール「外国の映画」に触れたときだ。

「洋画」の「洋」はあの頃の自分には、アメリカとイタリアだったような気がする。小学高学年のとき、マカロニウェスタン(英語ではスパゲティウェスタン・笑える)と呼ばれるイタリア制作の西部劇が大好きだった。クリント・イーストウッドは、髭をむさ苦しく伸ばし、口元をゆがめるアウトローのヒーローだ、今でも。あの当時の地方の映画館は、一日三本か二本の映画を繰り返し上映して、それぞれ三本立て、二本立てと呼ばれていた。一週間ほどで、上映作品が変わる。いわき市小名浜の大通りを外れた歓楽地の一角に金星座と銀星座があり、銀星座が洋画上映館だった。小学五年生からの友人定和くんと毎週いっていた。

「もぎり」のおばさんに「あんたら、こんなの見るの?」と言われた。「こんなの」とは男女が抱き合うシーンのことか。惹かれなかったのですか、と問われれば、お分かりでしょう、と答えておきます。映画、特に洋画は不良のものと見なされていた、かな。悪いことをしているという意識はー定和くんは知らないがーまるでなかった。世間の目など気にするな。母ユウ子に感化されていたか。

やがて「外国」は広がり、それぞれの地域・国に分かれていった。スペインという国はポルトガルという国と比べると大きいんだな。イタリアという国は面白い形をしているな。分割されていった国々は、知識の中で再び合わせられた。ラテンという枠組みでくくられる。

高校生の頃には、それぞれの地域に色彩を重ね始めた。偏見はこのように熟成されていくのか。外なるものからの影響と内なるものの独断の産物。イタリア・スペイン・ポルトガルはラテンの色、日本にはない明るい補色の組み合わせ。アメリカは色の三原色の主張のパレード。

「トーク・ツゥ・ハー」は、ラテンの中にもいろいろな色彩の違いがあることを気づかせてくれた。イタリア映画とかなり違う色。全てのものは、思考も含め、永遠ではなく一時的なもの、今ここにある状態。熟成された偏見が寛容につながることもある。理屈をこねくり回すとそういうことかも、です。単純に言えば、凄く好きな映画です。ここ20年くらいの中でのベストの一つです。


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