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番外編・徒然なるままに・noteここまでの話

番外編・徒然なるままに・noteここまでの話

note用に記事を書き始めたのが、3月12日でした。少し書きためて、まずひとつ試しに投稿したのが、3月22日ですので、noteを始めてから、ほぼ二ヶ月が経ちました。連続52日投稿になっています。以前の記事を見ると、ちょっと恥ずかしくなります。最近、書き直しが多くなっています。前の記事もわざと残してあります。いつか微笑ましく思う日が来るといいですね。最近は、一つの記事が長くなってきています。3000字を超えることもしばしばです。長く書けるようになってきたと言った方がいいかもしれません。ブログは長いものは嫌われるそうですね。ネット記事の観点からは、人を集めると言う目的であれば、一つも褒められません。

noteを始めた理由は、自分の文章練習の場を設けることと、友人の何人かに意見をして欲しかったからです。そのひとり大橋さんの意見・アドバイスは大変参考になっています。大橋さんとはマジックを通じて知り合いました。読書家で読む本は種々雑多、映画や美術にも詳しく、お仕事は職人さんと言っていいのかな、とても誠実な方です。年齢は僕より二回りくらい下なのかな、はっきりとは知りません。僕の書いたものをしっかりと読み込んでくれています。接続詞の使い方の意見、描写の指摘、説明の不足など、見逃しがちなところを具体的に指摘してくれます。ありがとうございます、大橋さん。

最近の記事はましになってきたとの自己判断もあり、note記事開始の連絡の輪を広げました。平木さんは、手紙で英語の記事についての意見を述べてくださいました。ありがとうございます。つい先日、こちらの塾の卒業生の岳くんから、全部読んだと嬉しい連絡がありました。気になるところを聞くと、最近の記事で一人に語りかける形式の記事は、自分に語りかけられていないような気になった、との意見です。肯くところあったので、書き直して投稿しました。メイさんは自分も訪れたスコットランドの描写が良かったと伝えてくれました。僕のクセのある話し方が思い浮かんで面白かったと言ってくれましたが、僕を知らない人が僕をイメージできるようにしたいですね。親友のAくんからは、自分のことは絶対書くな、二人だけのことに留めてくれと、釘をさされました。この意見?も参考になりました。

ブログで沢山の人に読んでもらうには、テーマを絞った方がいいと、多くのブログハウツー本に書かれていることも知っています。僕の記事で言うならば「英語学習」「マジック」「旅」「生徒」のうちから絞って書く、あるいは、noteには長めの「英語学習」を投稿し、instagramには写真をつけて「旅」を投稿するとかも、僕のネットの相談係タカマサくんの戦略に入っていました。記事の増えた今、テーマ別にnote内に「マガジン」を作ろうかなとも思いました。

結局、noteのみの投稿、マガジンも作らずでいきます。なぜか。僕は「英語学習」のハウツー本はここnoteに書こうとは思っていない。「マジック」の話をして、ネット上で趣味を同じくする人と楽しもうとは思っていない。楽しめるとも思っていない。「マジック」の情報を流そうとも思っていない。

僕が伝えたいのは「英語学習」「マジック」そのものではなく、それらを通して触れ合った友人、知人たちを描きたいのです。みな素晴らしいところを持っています。僕の言う素晴らしい人と言うのは、社会的地位の高い人とか、経済的に恵まれた人とかでは、もちろんありません。かと言って、社会的地位の高くない人が、経済的に恵まれていない人の方が、人の痛みが分かるとかの短絡的な結論の落とし穴にも嵌まりたくありません。

人生の中で触れ合った素晴らしい人々、長く付き合ってきた友人たち、旅に出て短い出会いながら印象に残った人々や風景、文字や音で心の深さを語ってくれた人や芸術、自分の人生が豊かになる土壌を作ってくれた人やものを描いていきたいのです。ひいては、それが自分を描くことに繋がり、この人の書いていること、面白かったな、良かったなと、楽しんでくれる人がいればいいのです。ゆくゆくは、その輪が広がっていき、みなが、心豊かになる一助となれればいいなと思っています。

話は飛びます。今日のお昼にウオールデンさんの記事を読みました。ウオールデンさんの記事は全て読んで損はありません。悔しいくらい素晴らしいです。取り上げる題材は「今、読むべき」もの、特に若い人は、僕はそう判断します。ウオールデンさんの語り口は少々攻撃的なのです。そこが刺激的で魅力を感じる方もいるだろうし、反発を感じる方もいるでしょう。些細なことには目を閉じて、ウオールデンさんの記事を読んで欲しい。今、面白くなくても、捨てないで、心の片隅にでも残して、思い出した時に、また読んでみて欲しいのです。素晴らしいと思える日が来ます。

ウオールデンさんの今日の記事に、作家須賀敦子さんのことが書かれていました。そこには、須賀さんはイタリア語と日本語を格闘させて新しい文体を作り出し「ミラノ霧の風景」で読書社会に登場したとあります。イタリア語と日本語を格闘…。すぐに「ミラノ霧の風景」を読み直しました。前には、思いもしなかった、文節区切りのような、独特の文体に気づかされました。その文体から受ける描写の美しさが滲みました。イタリア語の素養のない僕には、日本語との関わりへの言及は理解できませんでしたが。

今日はウオールデンさんの記事に触れる形で短いものを書き、そのほかにもう一つ記事を書き始めようと思っていましたが、だらだらと長いものになってしまいました。

このnoteには「思い出」からの風景、心象を描き共感して欲しいと思っているのですが、皮肉なことに僕の記事の中で「スキ」の一番多いのが、唯一の「思い出話以外」の「065徒然なるままに・noteでの出会い」なのです。わずか(なのかな?)15個ですが。時間の共有できない思い出話より、今の話の方に目がいくのは、今の僕の文章力の無さにしておきます。そうしないと、僕の触れてきた人たち、事象がかわいそうです。「素材」がより光るように何度も書き直していきます。

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