見出し画像

Re-posting No.068 佐藤喜義さん・マジック界アンダーグラウンドの怪物(1)出会い

Re-posting No.068 佐藤喜義さん・マジック界アンダーグラウンドの怪物(1)出会い

(No.068 を少し書き直し再掲載しました)

「アンダーグラウンドの怪物」これは僕が勝手に佐藤喜義さんに冠したものだ。最近は、地下から出てきている感もあるが、まだまだご存じない方も多いようだ。マジックをなさっていない方には、もちろん無名の存在であろう。親しくなった今「きよしさん」「しんやさん」と呼び合っている。

きよしさんは、知る人ぞ知る、マジックのディープな研究家であり、数々のマジックのクリエイターである。ご自身でマジックも演じられ、オリジナリティの強い作品で、多くのマジシャンを唸らせてきた。深くマジックに関わってきたものなら、その「凄さ」を感じるであろう。

僕が、きよしさんと初めてお会いしたのは、1991年、東京茅場町にあるマジックショップの老舗「マジックランド」の店内であった。この時、僕が37歳、きよしさんは3歳年上だ。眼鏡の奥の、きよしさんの目が優しかったのを覚えている。中肉中背しっかりとした体軀、鼻の下に髭を少し蓄え、ストライプのシャツにジーンズ、サラリーマンではない、ちょっと「無頼」の匂いを感じた。

マジックランドのオーナー小野坂東さんの奥さんでマジック界のレジェンド「ママさん」に紹介してもらった。「はじめまして、小野です」「ああ、どうも、佐藤です」。ここはマジックマニアの溜まり場、当然のようにマジックの話を始めた。

マジックに限らないと思うが、趣味の世界では「その道何年」とか関わってきた年月、相手の技量などの探り合いをしながら、人は近づいていく傾向がある。僕は、割合と探り合いなしに人に近づくタイプである。よく言えば人懐こい、悪く言えば踏み込み過ぎる。

気さくそうな人だな。この人なら頼んでも良さそうだ。「何かマジック見せてもらえますか?」「ああ、いいよ。何やるかな?」カード一組を取り出しシャッフルを始めた。鮮やかさとは対照的な、ゆっくりと無骨とも言える手付きでマジックを始めた。

「佐藤さん」が演じたマジックは、自分ならまずやらないものだった。マジカルな現象が起きるまでがちょっと長いのだ。本で知っているマジックだったが、演じる人は初めて見た。「こうして見ると意外に悪くないな、このマジック」そんな印象を持った。

「どんなマジックも捨てない」この姿勢も「怪物」への布石の一つだったかと、今は思う。「小野さんも、何か見せてよ」とかの言葉は、マジックを演じた後の「佐藤さん」からなかった。演じたマジックに対して、僕の反応がいいとは言い難かったからかもしれない。ちょっとシャイなところもある人だなと感じた。二人の出会いは、苗字の交換と「佐藤さん」一人のマジック披露で終わる。

僕は小学3年生の時にマジックに出会ったので、この時すでに、マジック歴は20数年となっていたこととなる。ただ、マジック熱が冷めていた時期だった。生活の保障もないのに、稼業の酒屋商売に見切りをつけ、大学入試に向けて、英語の勉強に時間を割いていた。この日は、創業以来の客の一人として、半ば習慣的にマジックランドに足を向けていた。

ずっと後に知ることになる話である。きよしさんは、トラックドライバーとして働き、前年より幼少時以来のマジックに触れ、マジックに対する熱をおび始めていた。マジックを趣味とする前は、麻雀荘に入り浸る生活をしていたと言う。マジック界の重鎮のお一人、二川滋夫先生の所を始め、マジック関係の場所に行くようになっていた。この日は、最近常連となった客の一人として、マジックランドに顔を出していた。

マジックへの情熱が冷め始めていた僕が、マジックへの情熱が沸騰し始めていたアンダーグラウンドの怪物きよしさんと出会った日、先にマジックランドを後にした僕は、何の感動も感激もないまま地下鉄茅場町への道を急いだ。ここに来るより、家で英語の勉強をしていた方が良かったかな。思い出にもならない一日が暮れようとしていた。

それから17年後、2008年11月2日、マジック人生最良の日の一つを、きよしさんから贈られることとなる。

・・・続く

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?