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No.177 「比文よ!」上智大学比較文化学部の思い出(2)English Composition 1 での学び・その2

No.177 「比文よ!」上智大学比較文化学部の思い出(2)English Composition 1 での学び・その2

No.176 の続きです。No.007 を大幅に書き直したものです)

「English Composition 1」教室でのマジック披露から約一ヶ月後、受講生徒一人ずつのconsultation(相談)があった。授業時間内に、ペーゲル教授の部屋で一人ずつ、consultationを受けるのである。ひとり15分程度の時間が振り分けられていて、講義3コマ分のうち自分が受ける時間以外は、実質休講となる。

「若き妹・弟」の同級生たちのみんなは「consultationいいよね〜、楽〜」と喜んでいた。このようなシステムと言うか、授業形態は初めての経験であった。欧米の何処かで、日本の大学のいずれかで、consultationは一般的に行われているのだろうか。寡聞にして知らない。

“Artline” (No.001)“Magic as Entertainment” (No.176)の高評価で、自信とも呼べない僅かばかりの「何か」は持てた。二年生になれば、もっと本格的な授業が多くなる。次の学期の「English Composition 2」 も必修科目だし、既に受講を開始していた「Basic Course in Linguistics(言語学入門)」にも四苦八苦していた。あやふやな「何か」の獲得程度では、到底、僕の不安は霧散して何処かに消えていったりはしなかった。

この当時、比較文化学部だけが上智大学四谷キャンパスから徒歩約10分の敷地「市谷キャンパス」にあった。住所は千代田区四番町、最寄駅は市ヶ谷駅か麹町駅で「日本テレビ」がすぐそばにあった。2019年9月30日に廃止されるまでの市谷キャンパスの歴史を、簡単に触れてみる。

「市谷キャンパスの土地は、当初は東京カトリック神学院哲学部が使用していましたが、同校が練馬区関町に移転したことにより、1974年9月に上智大学市谷キャンパスに衣替えしました。
市谷キャンパス竣工時に、それまで四谷キャンパスで授業を行っていた国際部が移転しました。
国際部はその後、1975年に外国語学部日本語・日本文化学科(1977年比較文化学科に改称)、1987年に比較文化学部へと改組されました。
2006年に比較文化学部から国際教養学部に改組され四谷キャンパスに移転するまで、市谷キャンパスは、本学の国際交流の拠点として国際色豊かなキャンパスでした。また『英語ですべての授業を行う』大学の先駆けとして、異彩を放つ存在でもありました。」
(上智大学公式HP「ニュース市谷キャンパスの廃止について」より抜粋して記載)

都内で「狭いキャンパス」として、よく引き合いに出される上智大学四谷キャンパスの広さは、東京ドームとほぼ同じ大きさである。市谷キャンパスは、四谷キャンパスの10分の1の大きさにも満たず、若き同窓生の中にはその「小ささ」に不満を漏らすものも少なくなかったが、僕はその「狭さ」がもたらす「親近感」に居心地の良さを感じ、大好きだった。

市谷キャンパスの入り口の門を入り、斜め右に少しだけ進むと三段ほどの小さな階段と狭いスロープがあり、そこが四階建ての校舎の入り口だった。正面に階段があり右手方向に小さなカフェがあり、事務室が入り口のすぐ左側にあった。

最大で200人ほどは収容できたと思われる大教室もあれば、10人も入れば満席の小さな教室もあり「English Composition 1」は、その中間ほどの、典型的な日本の公立小中学校に見られるくらいの教室の広さで、授業が進められた。他には個室になった教授たちの部屋があった。廊下の壁を窪ませたところにドアをしつらえていたこともあり、学生たちと一線を画する隠れ家のような雰囲気があった。

キャンパス内にはもう一つの小さな二階建ての建物があり、こちらはキャンパスの門を入ってすぐの右手側に位置していた。ライブラリーの他に、こちらの建物にも教授たちの部屋が配されていて「English Composition 1」のペーゲル教授の部屋は、この建物の二階だった。

梅雨の時期とは思えない爽やかな風が吹いていた。指定された時間の5分前にペーゲル教授の部屋の前に着いた。本校舎の教授たちの部屋と違い、ドアが廊下に面していて何処かからの光が当たり、明るいキャラクターのペーゲル教授に似合っていた。

ドアが開き、中から「仲良し妹同級生」のひとりヒサトが出てきた。「しんや〜、お先に〜」と明るく背中を見せて急ぎ足で去っていった。僕はほとんどの同級生から「しんやさん・Shinya-san」と呼ばれていたが、ヒサトは僕を「しんや」と呼びすてていた。今に至るまで、理由を聞いたことはない。

ひと一人が待つ部屋にノックをして入ることなど、自分の人生において「板橋区の法律相談」の経験しか思い浮かばなかった。いささかの緊張の表情があったのかもしれない。笑顔を伴った世間話からconsultationが始まったのは、ペーゲル教授の配慮だったのだろうか。

今でも、自分の英語能力は、最低限のものでしかないと自覚している。自分の希望なりは、何とか伝えられる。相手の言うことは、聞き直したりすれば、何とか理解できる。馴染みのある分野であれば、雑誌や新聞記事は辞書なしで、何とか読める。時間をかければ、課題の提出は、何とかできる。ペーゲル教授とも、何とか会話を続けられた。

二年生になれば「English Composition 2」の受講がある。もっと長い、本格的なものなど書けるのだろうか。10数人で行われるクラス「Public Speaking(演説)」も必修科目である。本格的な「演説」など日本語でもした事がない。少人数とはいえ、みんなの前でヘタクソな英語を話す自分を思うと自虐的な笑いさえ浮かんでくる。不安を伝えると、ペーゲル教授は答えてくれた。

「Shinya、書くのもそうだが、話す時でも、自分の興味のある事、好きな事を深く考えていってはどうかな。わたしの友人の一人の話をしよう。彼はアメリカの大学で教鞭をとっている。彼は何を教えているか、何を研究していると思う?日本の相撲だよ。彼は、それで博士号を取ったんだ。Shinyaのマジックは素晴らしかったよ。感激したよ。マジックの他に、何か好きなものはないかい?」

「いろいろあります!Bob Dylanが大好きです!」
「わたしの髪型はDylanに似ているとよく言われるよ。ははは!」
「映画も大好きです!教授は映画はお好きですか?」
「ああ、大好きだよ」
「May I ask what your favorite movie is, Professor Pagel?一番好きな映画は何か、お尋ねしていいですか、ペーゲル教授?」
「”A Clockwork Orange. “『時計じかけのオレンジ』だよ。Directed by Stanley Kubrick スタンリー・キューブリックが監督だね。見ているかい、Shinya?」
「もちろんですとも!”2001: A Space Odyssey “ 『2001年宇宙の旅』も凄かったですね、Mr.Pagel ペーゲル先生!」
「ちゃんと英語のタイトルで覚えているじゃないか、しんや!」

学生一人の持ち時間は何分だった?
30分が過ぎていた、僕のconsultationが始まってから。

・・・続く

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