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「その人といるときの自分が好きかどうか」問題

数日前に配信を開始した「バチェラー・ジャパン5」を観ていたら、ゲストMCの片寄氏が2話でこんな発言をしていた。

「(どの女性との間にも好意が発生していると)だからこそ、誰といるときの自分が好きか、という考え方にもなってきますよね」

これを聞いて、「おお、わかるぞ」とエア膝を打った私である。私も常々、恋愛というか人づきあい全体において、そこは重要だと思っていた。

もちろん、誰もがこの点を大事にするとは限らない。だけど「この人といると、なぜか好きな自分でいられる、いようとしていられる」と相手に思わせることができたら、それが関係性の推進力になる可能性は高いと思う。好きな人と一緒にいられれば幸福であるように、好きな自分を感じられることもやはり幸福だからだ。

映画「恋愛小説家」で、ジャック・ニコルソン演じるメルビンが、実質的な愛の告白として発したこの台詞なんかもそのことをよく表している(この台詞好きなんだよね)。

You make me wanna be a better man(君のおかげで良い人間になりたくなったんだ)」

「恋愛小説家」より

自分のことを考えてみても、たとえば夫に対してはこの感覚があった気がする。夫といるときの自分を好きだと明確に思っていたわけではないが、会ったあとに「この人とは、いつも良い感じの自分で会っていられるなあ」と思える感覚はあった。だからこそさっさと結婚できたのだろう。

逆に「この人と一緒にいるときの自分ってあまり良い感じではないし、好きじゃないんだよな」という意識が多少なりともあると、関係の持続は難しい。仕事などなんらかの利害関係でつながることはできても、それ抜きの恋愛・友情関係を続けるには努力がいる。ちなみに「良い感じでない自分」への陶酔でかえって相手に執着するケースもあるが、これはつまるところ「その人といるときの自分が好き」のバージョン違いである。


と、このような「その人と関わっているときの自分を好きかどうかは、関係性をつくっていくにあたりわりと重要なファクター」という観点で考えると、恋愛における「一見うまくいきそうに見えるが実はうまくいかないことが多いパターン」の、うまくいかない理由が見えてくることがある。


たとえば、私が昔から「これってうまくいかないことが多いんだよな」と思っていたパターンの一つはこれだ。

女性→男性の片思いにおいて(私が組み合わせとして多く見るのはこれだが、男性→女性の場合も同性同士の場合もあるだろうと思う)、女性側が「彼が自分の考えや過去について一番打ち明けている相手は私だから、私が彼の一番の理解者である。彼は今のところ真剣な恋愛に対して臆病だが、最終的には私の元へくるだろう」と主張しているケース。

大抵の場合、こう主張する女性は辛抱強く真面目で、相手の懐に意図的に入り込んでいく一定のしたたかさも持っている。そして男性の方は実際その女性に対して甘え倒しており、「君ほど俺をわかってくれる人はいない」なんて発言をしていたりもする(下手したら肉体関係もある)。周りの友人たちも、「○○君を全部受け止められるのは○○さんしかいない」と考え、二人の関係を応援していたりもする。

このカップリングを阻むものは一見何もない。だから「男性さえ素直になれば」うまくいきそうな状況にも見える。

が、私の周りでは、このパターンで恋愛的にうまくいった事例が極めて少ないのだ。多いのは、男性側が全然違う女性とひょいと真剣交際や結婚に突入して関係が終わるか、交際らしい関係まで到達するもモメまくるか、のどちらかである。恋愛期間をすっ飛ばしていきなり結婚、というくらいの思い切った展開じゃないとうまくいかない。あくまで私調べだけど。

思うに「女性の好意に甘えてなんでもかんでも打ち明けまくる男性」と「男性の吐露を受け止めまくり、彼の一番の理解者としての確信を深めていく女性」の間では、相手への好感度とあわせて、「その人といるときの自分が好きかどうか」の温度感こそが相当食い違うんじゃないだろうか。つまり前者はそういう自分のことを好きになれず、後者はそういう自分を好きになりまくってしまうのである。

自分を受け止めてもらうばかりの関係はたしかに気持ち良いが、ほとんど親子関係の再現だ。子の立場に甘んじる自分を、心底好きでいるのは大人には難しい。もちろん、逆に「それこそを求めていた」という人にとっては良い関係だろう。

一方、相手の情報をストックしていく快楽は、相手を掌握できているという過信につながりかねず、そうなった場合は支配欲求として必ず相手にも伝わる。この支配欲求を心の底で察知している側がもう一方から逃げる、というケースは多いように思う。恋愛だけでなく実際の親子関係だって、支配被支配一色になったら破局しか出口がなくなるものだ。


やはり人間関係は、相手とフラットな位置に立ち、予断を持たず率直に付き合うのが良い……という凡庸な結論にしかならないけども、これが一番難しいことなのに違いない。

「バチェラー5」では、バチェラーと二人きりになるや自分の「過去の恋愛で負った傷」トークをシリアスに展開した女性が(案の定)脱落する展開があったりもした。指示された演出だった可能性もあるが、彼女としては自分の信頼感を示したつもりだったのだろう。犬が初対面の相手に腹を見せるようなものだ。しかし、関係性ができあがる前に相手を「理解者」の立場に追い込もうとしても、それはやはり受け入れられにくいのだ。

そういえばさっきあげた映画「恋愛小説家」は、メルビンが犬を引き取らなければいけなくなる展開から始まる。犬は人間に迷惑をかけまくるが、人間社会では嫌われ者のメルビンを裁く存在ではない。そこに彼の小さな変化を、「良い人間になりたい」と思わせる何かを促すポイントがあったのだと思う。


先を決めずにだらだら書いていたらなんだか長くなってしまった。実際の恋愛はあまり経験していないが、恋愛コンテンツから考えることは多い。次週のバチェラー5の配信分も楽しみになってきた。

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