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ジェンダーやセクシュアリティに関して、私が子どもに一番伝えたいこと

「ジェンダーやセクシュアリティについて、子どもに何をどう教えるべきなんだろうね」

 子どもができてから、子育て中の仲間からそんな問いを共有されることが増えた。これに悩んでいる人は、少なくとも私の周りではかなり多い。もちろん私もそのひとりだ。

 現代は、社会通念の変化がとにかく速い。その中でも、ジェンダー・セクシュアリティを取り巻く概念や用語の細分化、複雑化は特に著しいと言っていいと思う。今はインターネットを通じてあらゆるカルチャーやミームに触れられる時代だし、「まあそのうち自分で勝手に学ぶでしょ!」でほっぽっておくのは怖いというのが正直なところである。

 子どもにはなるべく社会のしがらみや偏見にとらわれない、自由な心で人生を歩んでほしい。
 同時に、関わる人々と安全な関係を築いて、加害することもされることもなく成長していってほしい。
 そう願うのは簡単だ。
 でも、そのためにじゃあ親は、まったくもって不完全で無力で、正解の見えないまま生きている私は、何をどう子どもに教えるべきなんだろうか?

 もちろん、まだわからないことばかりだ。学ばなければならないことも山積みである。

 ただひとつだけ、これだけは可能な限り伝えていこうと決めていることがある。

 それは「私たちは、ジェンダーやセクシュアリティという”概念”を使ってこの社会を作ってきており、今のところまだそれを使用しながら生きているんだ」ということだ。

 もっとシンプルに言うと、「”概念”の存在」そのものに気づいてもらいたい、ということかもしれない。

「愛情関係にはいろんな形があるんだよ」
「性別にもいろいろあるんだよ」
「表現したい自分を、自分で選んでいいんだよ」

 そういった具体的なことを教えるのも大切だし、その中でおいおい、いろんな用語やある種の文脈、NG事項なんかも知ってもらうことになるだろうとは思う。
 しかし、そういった知識の土台として持ってもらいたいと私が願ってやまないのが、「あれもこれもそれも、基本的には”概念”であり我々の頭の中にあるものなんだ」ということなのだ。たとえば、「女」というのももちろん概念である。

「いや、概念なんかじゃない。女の体は女の体をしているじゃないか」

 と思う人の気持ちもわかる。具体的に見える、触れるといった物理をともなう認識が「これは実際にある」と感じさせるのは当然のことだし、その前提を共有できなければこの社会は成り立たない。

 それでも、「女」そのものは概念だ。
 その辺を歩いている女性的な外見の人間を指差して「あれは女だ」と言うことはできる。しかし、「女」そのものを具現化することはできない。
 炭素は炭素だしプルトニウムはプルトニウムだが、「女」というナニかがこの世にあるわけではないのだ。それはあくまで私たちの頭の中にあるイメージで、言葉や、それに近接する分類・区別の行動で他者とざっくり共有できているからこそ、「実際にある」と思えるだけのものである(もちろん、もっと言えば”認識”そのものの実存を疑うこともできるが、そこまでいくと大変なのでもう少し浅瀬にとどまりたい)。

 ええとこれは、「所詮概念にすぎないのだから、女という考え方をみんなで無視して生きましょう」と言いたいわけではない、念のため。

 むしろ逆で、「概念だからこそ大事に扱っていかねばならない」と私は考える。大事にというのは、「女は女でしょ」で終わるのではなく、「はい、明日から『女』禁止!」と極端な禁止令の対象とするのでもなく、「我々にとって今『女』を成立させるものは何なのか?」を考えながらやってきたいということだ。

 あまり込み入った話をしていると長くなるからやめるが、とにかく「”概念”という概念」を折に触れて伝えたい、というのが私の主旨である。

 なぜそこを私が重視するかというと、あらゆる価値観が激しく移り変わる人間社会の中で、本当の本当に変わらないのはそこだけだからだ。

 私は約10年前、26、7歳のときに『百合のリアル』(著:牧村朝子)という新書を企画・構成した。以来何作か、LGBTQ+関係のコンテンツ制作にも関わってきている。ここまでたったの10年ではあるが、10年前と今とではいろんなことが変わったと感じる。
 良い方向に変わったと思うところもあれば逆もある。新しく生まれた言葉もあれば廃れた言葉もあり、人に想起させるものの変わってきた言葉、概念もある。以前は社会的になんとなく許容されていたことが今はそうでもない、といったことが多いのもご存知の通りだ。
 こういう変化は、絶対に今後も続く。ならば変わること前提で知識を得ていかなければならないし、そのための基礎になるのは、そもそもの人間の”ものの見方”自体についての”自覚”だと私は思う。

 人間は常に概念を使ってものを見ているし、それを使って他の人と行動を調整し、社会の「普通」や「異常」をつくる。自分も今まさに、その営みに参加している。

 子どもには、そういうことを頑張って伝えてみたい。
 正しく「教えられる」とは全然思っていないし、子どもが親の言うことなんかさらさら聞かない悪童に育つ可能性も充分にある。こんなものは所詮、まだ喋りもしない赤ん坊を育てている人間の単なる意気込み、取らぬ狸の皮算用にすぎない。

 でも、「だいたいのことは頭の中にある」と伝える機会は、一緒に暮らしていればそれなりにあるはずだ。私だって親の言うことなんか大半聞いていなかったと思うが、それでもたくさんのものの見方を親や周りとの会話から得ていたと今ならわかる。


 まだ私を母という概念で、自分を自分という概念でとらえていない子どもを見ながら、よくそんなことを考えている。

読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。