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14歳のときの私は、アラフィフのおじさんに対して「警戒したら悪い」と思っていたなという話。

山口達也氏の事件に対するSNSの反響で、

「その歳なら、男の部屋に行くのがどういうことかくらいはわかったはずだ。うまく断ればよかったんだ」

という意見をかなりたくさん見た。予想はしていたが、かなり攻撃的なニュアンスでそう書いている人も多く、やはりまだまだ「被害者の落ち度を叩く」風潮は強いのだと思わずにいられなかった。

これから、この「中高生だろうと、『女として狙われる可能性』は常に念頭に置いて行動するべきだ」というお説について、個人的に考えたことと、思い出したことを書いてみる。めちゃくちゃ長いので、「100字でまとめろよ」という忙しい人には「子どもに性的ないたずらをするな、ということです」とだけ言っておく。

もう少し説明するなら、私はこの記事を一人の大人として、「責任を負うべきは大人の側である」という意見を表明したくて書いた。
誰のために書いたかというと、「この件について、子どもを責めるべきではないという考えを持っている人の言葉をもっと読み、元気づけられたい」という人だと思う。気分の都合で、異なる意見を持つ人を意識した表現で書き進めているが、それも含めて結局は「子どもが責められていることに傷ついている人」むけの文章である。なぜなら私自身がそうだから。ムカついているのである。悲しいのである。だから書いたのだ。

なのでまあ、そのつもりで読んでください。「いいや、悪いのは山口くんをハメた女子の方だ」と固く信じてしまっている人がこれを読んでも考えは変わらないだろうから、そういう人はおとなしく自分が信じる情報の海に帰っていってほしい。

なお注意しておくと、思い出したことの方は、私自身が中学生のときに経験した、「予想だにしない状況でアラフィフのおじさんに体を触られた」話である。キスとかレイプとかの話ではないが、そういう話を見ると気分が悪くなってしまう人も読まないほうがいいかもしれません。

中高生の中にはコドモもオトナもいる

さて個人的には、先述のような「その歳ならわかったはずだ」というジャッジメントにはまったく賛同できない。

理由はシンプルだ。「それは人による」としか言いようがないからである。

中高生というのは、なんとなく学年や年齢でいっしょくたにされがちだ。「中2ならこのくらいの成熟度」「高2くらいならまあもう大人みたいなもの」という具合に。でも実際は、そんなくくりかたには無理がある。生物的にみれば、成熟度はきわめてバラバラだ。

保健体育レベルの基本的な話だけど、第二次性徴期の心身の変化ぶりには個人差がある。生理だって早い子は10歳そこらで来るし、遅ければ高校生に上がってもまだ来ていない。生理歴5年の女子の隣に、初めての生理でうろたえている女子が座っていたりするのだ。当然この二人の、自分の「女である体」に対しての意識はまったく違う。

さらにいえば、性についての知識や感受性だって、生育環境によってあまりに異なる。親が明るく「◯子も、男の子と付き合うときは絶対に避妊に気をつけるんだよ」と注意喚起をしてくれる家もあれば、「高校生にはセックスの話はまだ早い」という価値観で、性のセの字も発音しないような家だっていくらでもある(後者の家の方が多いだろう)。

もうひとつ、性欲に対しての実感だって本当に人によって違う。これは、生理が来ていようがいまいが、性体験があろうがなかろうが関係なく発生する違いである。幼少期から肉体的なモヤモヤや衝動を感知し、中学生のときには自慰行為にふけっていたというような子が珍しくない一方で、「性欲って何?おいしいの?」という状態のまま高校を卒業する子だっていくらでもいる。この二人に、「男の衝動的な性欲」の話をしたところで、同じような受け止め方ができるわけない。

「そんなことはない、私の周りのクラスメイトたちはみんな、男女の機微くらいだいたいわかっていた」なんて思う人もいるかもしれない。でもそれはたぶん、あなたが自分と同じようなタイプの子たちとしか話していなかっただけだと思う。こういう人の言う「みんな」というのはせいぜい10人程度のことだ。私の幼馴染は中高一貫校で教師をやっているが、最初の頃、よく「ほとんどの子は本当に子どもで、赤ちゃんみたいだ」と言っていた。見る人が違えば見える光景も違う。

つまり中学生・高校生というのは、「子どもと大人がごちゃまぜでひとつの教室に放り込まれている」ような時期のことなのである。見た目は似たようなものでも、性的な成熟度としては小学生と大学生がまざっているくらいの違いがある。本当にこの辺りの差がなくなってくるのは、私の体感だと20歳くらいだ(言うまでもなく、大人になってからも違いはたくさん残るのだが)。そのずっと手前の時期の子たちに、どうして一律で「その歳なら性に対してこのような意識を持ち、異性と二人きりになることに対しては敏感でありなさい」と強要できようか。

よしんばそれを指導したところで、言われたことを実感としてとらえ、男性への意思表示に変換できる子と、理屈ではわかっても行動としては小学生と大差ない子は必ず分かれるはずである。

そして私は後者だった。

「警戒したら悪い」という「気づかい」

この話をネットでちゃんと書くのは多分初めてなんだけど、私は中学生のときに、通っていた武道塾の師範に妙な触られ方をしていた時期がある。

私は当時中2くらい、師範の方はたしか51とか2くらいだったと思う。K士舘大学出の、多数の武術で師範免許を持っている豪傑だった。幼い私から見たら、とにかく強く、頼もしい大人の男だった。小学生のときに父を亡くした話をしたとき、冗談交じりに「僕のことをお父さんのように思いなさい」と言ってくれたこともあって、道場に通いはじめてすぐ師範になついた。

そこで私は、剣道と体術を習った。楽しかった。強くなりたかった。

私はものすごい勢いで武道にのめり込み、毎日筋トレを欠かさず、稽古の日はかならず1時間〜30分前には道場に着き自主練をした。ぶくぶくに太っていた体は一年であっという間に引き締まり、むしろムキムキ方面に向けて舵を切っていた。

早い時間に道場に行っていたため、師範とよく二人きりになった。そういう時間に素振りの指導をしてもらうこともあったし、師範の使っている居間みたいな小部屋に呼ばれて、二人で話をすることも多かった。

そんな中で、あるとき師範が「筋トレを教える」と言ってきたことがあった。

私はその小部屋で、師範の指導に従って腕立て伏せや股関節のストレッチを行った。触られたのは、このときのことである。

ちょっと筋肉の具合を確かめたいからと言って、師範は自然に私の道着の中に手を入れて、胸筋のあたりを何度かもんだ。さらに、下半身の方にも手を入れてきて、恥骨の上、恥丘と言われる陰毛が生える部分をやはり触られた。それ以外の「筋肉」には触られなかった。同じようなことは、2,3回あったような記憶がある。

正直、触られるときには「ええ、そこ?」と思ったし、「ちょっといい?」と言われたとき心では「嫌だ」と思った。
でも、「先生」という立場の人間が、「拒絶されないこと前提」の和やかかつ朗らかな雰囲気で、ちょっと触るねなどと言って手を伸ばしてきているときに、「いやいやちょっとそのへんは流石に」などと中学生の立場では言いづらい。少なくとも私は言えなかった。
なぜかといえば、触られるのを拒否するということは「私は、自分の女としての体を、男であるあなたという脅威から守りたい」という意思表示になってしまうし、「そんな風に思ったら先生に悪い」と考えていたからである。

ここで重要なのは、私の胸に浮かんだのが「そんな風に『思ったら』悪い」、という感覚だったことだ。疑いを持つこと、警戒すること自体を、私は「相手に対する失礼」だと思い、すぐさま引っ込めたのだ。

ここが、31歳の私が振り返ったときに「ああ、子どもだったんだなあ」とかわいそうに思う部分である。

相手を内心でどう思っていようが、行動で示さない限り伝わりはしないのに、未成熟で自己境界線が曖昧だった頃の私は、自分の感覚と実際の意思表示と、そして「相手からの好意」の切り分けができなかった。

私は好かれるために相手を好いた。
信頼してほしくて自分の疑いを殺したのだ。

そりゃ「男は狼らしい」とは聞いていましたけどもね

ここで、私の「性に対する認識スペック」についても説明しておく。
私は無知で純粋でおぼこい娘だったか? いやいやとんでもない。さすがに非処女ではなかったが、すんごい耳年増で、自分のことを「大人」だと思っていたのだ。

小池家は性的な話題についてかなりオープンかつ真面目だったので、私がセックスについて教えられたのも早く、7歳のときである(弟が生まれたときだ)。基本的に早熟で、毎日大量に本を読んでいたから多少の性描写には慣れっこだったし、映画キチでもあったので、中学生の頃には任侠映画を見ながら、「うーん、なんで任侠映画のセックスは騎乗位ばっかりなんだろ」などと思ったりしていた。ニュースを通じて、世に性犯罪が溢れていることも、娘を襲う父親や女子生徒を襲う教師がいることも知っていた。

何が言いたいかというと、セックスの構造については親からしっかり教えられていたし、「男は狼なのよ」的概念についても、さまざまなメディアを通じてみっちりインストールしていたということである。正直、エロや、男女のその手のシチュエーションに対する知識量だけだったら、中二のときの私と、31歳の私にそこまで大きな差はない。

それでも私には、あの道場の小部屋で、師範に「触られるのは嫌です」とは言えなかった。

「男は狼なのよ」という脳内の知識は、現実の非対称な権力構造の中で感じた、不安や不快感を解消する手段に結びつかなかった。それはそれ、これはこれなのである。もちろん、「二人きりになるのは危ないかも知れないから、小部屋に呼ばれても断る」なんて発想も皆無だった。

これは、電車でからんできた変質者を傘でどつきまわして追い出す(私が実際にやったことだ)、などのフィジカルな護身とは違う。
これまでの、そしてこれからの関係性が存在する身近な(好感を持っている)大人から、ふいにプライベートな領域に踏み込まれたときにどう対処するか、というコミュニケーション上の問題だ。ここで、関係性のイニシアチブを握られている側が、握っている側に対して、不安を示すのは極めて難しい。

「うまく断ればいいじゃないか」という声もある。
たしかに、「男側に不快感を抱かせないようにうまく断る」というのは、アラサーの女なら大なり小なり確保しているナレッジである。しかしさっき私が書いたことを思い出してほしい。少なくとも私は、「彼を警戒すること自体が失礼だ」と思ってしまったのである。そしてそれが、未熟な私の中では最大限の「男性への気づかい」であった。実際これこそが、性犯罪など犯さない、「普通の」男性が望んでいる態度だろう。

こういうシチュエーションで、「まったく男はどいつもこいつもチンコ野郎だなァオイ」と心の中で毒を吐きつつ「ああ〜先生すみません、私実は見えないところにアトピーの湿疹がめっちゃあって、触られるとバイキンが入って膿んじゃうかもしれないんですよ。だから触るなら道着の上からにしてもらえます〜?」と笑顔で言えるのは、31歳4ヶ月の今の私だ。断じて14歳の私ではない。15歳でも16歳でもない。

先生は優しい人なんだから、下心があるのではなんて疑っては悪い。私なんて別に美しくもない、ただのがっちりした中学生なんだから、変なところを触られたなんて思うのは自意識過剰だ。あれは本当に、ただの筋肉の確認だったんだ。

師範からの接触についてそう思うようにしていた私が、「あっ、私は不快な目に合わされていたんだ」と気づいたのは18歳、師範が死んだときのことである。

葬式会場で、同じ道場に通っていた女の子に

「でもさー、先生セクハラ野郎だったよね」

と何気なく言われたその瞬間に、頭の中でガーンと音がした。「やっぱりそうだったんだ」という言葉が目の裏で炸裂した。その瞬間まで、何年もかけて私は、「先生を疑っては悪い」と「気づかい」続けていたのだった。

たかが乳房と恥丘を触られたくらい、と思うことはできる。
それを思い出すと手が震えるとか吐くとかそんな深刻なトラウマにはなっていないと思うし、乳首も膣も触られていないのでセーフ、という発想をすることも可能である。またひょっとしたら、何%かの可能性で、本当にただの筋肉の確認だったのかもしれない。(書きながら改めて思ったけど、これはまさに、性犯罪の被害者を責める人が言う言葉ですね)

でも一人で悶々と思うのは、「別にそうまでして、触られたことを軽視してあげる必要もねーよな」ということだ。
触られたのが乳房か乳首か、キスされたかされてないかなんて別に問題ではない。あのとき私には「断るという選択肢を与えられていなかった(脅されていなくても、そこには明確に権力の勾配があった)」し、その状態で触られた、ということが一番の問題だと思うのである。

私に不安と無力感を与え、「それでも先生の側を気づかわなければならない」という従属の気持ちを増幅させたもの。その諸々を私は、私のために「暴力だった」とジャッジする。そしてかつての先生の年齢にだいぶ近づいた今となっては、「筋肉の確認だろうがなんだろうが、子どもの体にそんな風に触れてはいけない」と言い切ることができる。

私は十代の頃からずっと性的接触に対してあまり意欲が持てず、他人から触られること全般が嫌いで、28歳の終わりまで処女だった(まったくもって関係ない余談だが、「飛影はそんなこと言わない」の元ネタのAV「欲情列島宅配便」のタイトル画面には「28歳処女は実在した!」という文字が踊る。実在してました)。

その原因がこのときの体験ひとつだとは思わないが、たぶん触れ合うことへの「ネガティブな印象」のひとつにはなったと思う。これが「無理やりキスされた」とかだったら、残ったダメージは計り知れなかっただろう。

女子高生に迫られたときの理想的作法

中高生なんて、性に対する成熟度的には小学生と大学生が混ざっているようなものだと書いた。そんな彼女・彼らを、私たちは社会的にどう扱えばいいのだろう? 

簡単だ。「より幼く弱い方」に合わせて、庇護の基準を設けるべきなのだ。

「社会的に守る」と「甘やかす・つけあがらせる」を激しく混同する人が多いので一応書いておくが、これは別に「子どもなら何をしても許そう」「何もできない未熟な存在として扱おう」ということではない。「勉強のできない子に合わせて授業のカリキュラムを組みましょう」みたいな馬鹿げた横並び主義とも違う。「一人の個性と人権ある人間として尊重する。同時に、彼女・彼らの行動に、こちらから不必要な社会的リスクを背負わせようとしない。リスクは常に大人側に多くあると心得る」というだけのことである。リスクを背負えるだけの知力精神力を持った子どもはいるだろうが、それでも社会的ラインはそこには引かない、ということである。

「16歳でも、大人の女のように成熟した精神と体を持つ子もいる」。うん、いるかもしれない。山田詠美が『放課後の音符』で描いたような、セクシーな女子高生たち。いるだろう。それもひとりやふたりではないだろう。

でも、それを免罪符に、我々大人の側が「だから16歳の女子には、大人の女性と同じだけの危機感と自己責任感を求める」「家に上がったからには、大人の女として何をされてもいいということだ」と言ってはいけないのである。

向こうがどれだけイキッてこようとも、私たちは、社会的にはあくまで”山田詠美みたいじゃない方”の女子高生を念頭に置かなければいけない。そうでなければ——つまり、山田詠美の描写レベルをこちらが勝手に基準にしてしまったら、そこからこぼれ落ちる子たち全員が、「そこに達していないのだから自己責任」という、地獄の沼につねに片足をとられた状態になってしまうではないか。

「女の側にも下心があったんだ」と、一部の心ない人たちは言う。他のジャニーズタレントとつながるために行ったんだ、最初からハメるつもりだったんだと。でも私からみれば、仮にそうだったとしてなんなんだ? という感じである。

五千万歩ゆずって、山口氏の家に行った女の子が、ものすごく蓮っ葉な、男慣れした女子タレントだったとする。マネージャーからプロデューサーから誰彼構わず色目を使う、「次のターゲットはジャニタレだな」と思っている女だったとしよう(※あくまで妄想。実際の被害者がどんな人だったのかは私には知りようがない)。そして、”一人で”夜の8時に彼の家に行ったんだとする。

私が言いたいのは、「そうだとしても手を出すな、子どもに手を出すのは恥ずかしいことなんだから」ということである。

想像しよう。私たちは、もうじき50に手が届こうというおじさんである。私たちは平成初期からこのかた、すさまじい人数のファンを抱えてきた人気アイドルであり、いくつもの番組にレギュラー出演をしている。結婚もし、子どもを持つという経験もした。そんな私たちの家に、番組で共演している女子タレントが一人で遊びに来た。作った料理を食べさせて、彼女に請われるままに業界の裏話をしていたら、彼女が隣に座りベタベタとくっついてくるではないか。明らかに誘っている。なんのつもりだ、と聞いたら遠回しに、好きなようにしていいから、そのかわりあなたの後輩の◯◯くんと◯◯くんを紹介してよ、などとぬかす。

ここで、立派なアラフィフであるところの私たちが思い浮かべるべきは、「据え膳食わぬは……」なんていうカビの生えた格言ではない。彼女のタレントとしての進退であり、彼女の成長を見守っている親御さんたちの顔である。
20年以上一緒に業界を走ってきた仲間たちの横顔であり、次のライブを楽しみにしている何万人ものファンの姿であり、看板番組の放映を楽しみにしているお茶の間のみなさんの姿であり、別れた女房と子どもたちの笑顔であり、来週の「週刊文春」の見出しである。だって私たちは大人であり、なおかつタレントという、ファンの狂気的なまでの期待や執着を背負って立つ、過酷な商売をわざわざ選んで生きてきたタフな人間なのだから。

だから私たちは、ここで彼女をはねのけなければならない。そんな幼稚な、下手くそな媚の売り方で芸能界をわたっていけると思うな、と叱るのだ。まだ幼い彼女にそんなやり方を教えた、この腐った業界全体を代表して謝るのだ。これからも君と気持ちよく仕事をしたいと思っている俺やスタッフの気持ちを考えられるくらい大人になってほしい、と頼むのだ。すぐに彼女の親に電話し、その親が良心的な人物であることを確かめた上で、彼女に対しての的確なケアを求めるのだ。

彼女が、「この人に、子どもの浅知恵で色仕掛けをしようとした自分が恥ずかしい」とガタガタ震えるくらいの毅然とした大人の態度を取る。「据え膳を食う」より、そっちの方がずっと「恥ずかしくない」行為だと思うんだけれども。この大人を「え〜、そこで抱かなかったワケ? お前男として腰抜けだな」と馬鹿にする男がいたとしたらそいつの方が恥ずかしい。

理想論上等ですよ

私のこんな考え方は理想論的すぎ、綺麗事的すぎるんだとは思う。私だって完璧な大人じゃないから、いざというときにこんなに見事に動けるかといったら自信はない。バカヤロー大人をナメるな、と怒鳴って追い返したはいいものの、彼女が「あのおっさんに泣かされた」と親に言いつけ、翌日文春の記者から電話がかかってくるというはめになるかもしれない。

それでも、私としてはやっぱり「より恥ずかしい行いとは何かを考えようよ」としか言えない。誰かが理想論や綺麗事を言い、また違う誰かがそれを継いで言い続けてきたからこそ、現実は動いてきたんじゃなかろうか、と思うからである。

少なくとも300年前の世界に「世界平和を目指そう」なんて考え方は定着していなかった。200年前の日本に「人権」という考え方はなかった。「中高生の子どもには手を出さないのが大人としての常識である」という「新しい綺麗事」がまだ社会に定着していないのなら、あと百万回でも言わねばならぬ。

私だって、意志が弱く、いい加減で短気で、だらしない人間である。今この瞬間、中高生の女子や男子を性の毒牙にかけたいなどとは一ミリも思っていないが、思ってもみない形で正気を失い、自分より立場の弱い人を激しく搾取する可能性は常にある。アルコール依存症になる可能性だってある。そう、私たちは常に山口達也になってしまう危険性と隣合わせに生きているのだ。怖いことだ。だからこそ、自分の中でちゃんと綺麗事を、理想論を掲げていたい。「正しくいなければ」と強迫観念的に自分を追い詰めるのではなく、ただ淡々と、自分の内側の理想に向かって進むことは可能だと思う。

こういう話をすると「完璧な人間ばっかりになったら社会がつまらなくなる」と言う人が必ずいるのだが、完璧な人間ばかりの世界なんて有史以来一度も到来したことがないのに、何をもって「つまらなくなる」と断言しているのか謎だ。完璧な人間100%の時代なんてこの先千年かけても訪れまい。人間以上の倫理も、人間には想像できないに決まっている(人間が想像できている時点で、それは「人間の範囲内の倫理」に過ぎない)。だから安心して理想の大人像を追いたい。周りの大人たちと「人としてこうありたいよね」という話をしていたい。

そしてそういう、理想を追い、犯罪を犯していない大人のことも、「警戒」して良いのだと子どもには教えていきたい。あなたは子どもだが、それでも大人を警戒する権利があるのだとは、保健の教科書もエロ本も教えてくれなかったのだから。

読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。