見出し画像

私が「だからぁ」を使わない理由

人生で初めて明確に禁止された言葉は、「バカ」でも「死ね」でもなくて、「だからぁ」だった。

6歳かそこらのときのことである。私は、家の玄関近くでロードバイクに油をさしていた父のそばで、その日にあったことをあれこれと喋っていた。我が家ではよくある風景である。ただ、私の説明でよくわからないところがあったらしく、父が何か質問してきたか、私からすると意味のわからないことを言ってきたという場面があった。

当然ながら、私は言い直すことにした。

「だからぁ、○○が××でね……」

しかし私がそう口にした途端、父の怒号があたりに響き渡ったのである。

「だからぁ、なんて下品な言い方をするんじゃない!! 自分の説明の何が悪かったのかをまずは考えろ!!」

「!?」

意味がわからなかった。当然だ。いきなりそんなことを言われても6歳児には荷が重い。

震え上がり縮み上がり、私はとりあえず母の元へと逃げ込んだ。

父は家族を愛する優しい男だったが、同時に短気な変人でもあった。家と別に書庫を借りていたくらいの読書狂、かつ楽器やボードゲームなどのマニアでもあった父、高卒で1960年代のH報堂に入社し広告プランナーになった経歴を持つ父は、「言葉」に対しても自分なりのこだわりを持っていたらしい。いや、この言い回しを駄目だと言う理屈はわかるのだ。ただ、だからといってこの伝え方はどうかと思う。

ともあれ当時の私は若干6歳であり、この世界で一番怖いのはパパで二番目は水をかぶったグレムリン、という単純無垢な生き物であった。このショックを機に私は、「何かを言って相手にその内容が伝わらなかったら、こっちの説明の仕方に問題があったと考えて改善するべし」という規範を胸の内に持つのである。ちなみに父はこのやりとりのあと、私が9歳の時に死んでいる。

怒鳴りつけて子どもに自責の念を叩き込むことの教育的是非はさておき(よくはないだろう)、この価値観が良くも悪くも、子ども時代における私の「目の前の相手をよく観察し、自分の想定との差分を探る」感覚を刺激したことは間違いない。

人間は、ひとりひとりが違う認識の世界を持っている。経験も前提知識も異なる。たとえ同じ言語を使いおおまかに同じ概念を共有できていたとしても、実は他者は必ず違うものを見て、違う解釈に生きているのだ。

成長するにしたがって、私はそのことを強く意識するようになっていった。すると、会話をしたり文章を書いたりする中で、ある種の問いが自然に浮かぶようになる。

「こちらの言ったことをこの人はどう解釈しただろうか?」
「この表現が伝わらなかったようだけどそれはなぜだろうか?」
「○○という言葉で、この人は何をイメージしたのだろうか?」

自分なりに問いを持ち答えを探る過程は、やがて「伝えたいことを伝える」ための試行錯誤へとつながる。状況に応じて、相手に応じて伝え方を考えることが当たり前になっていったのだ。

もちろん推察を間違うこともある。信仰や文化の違いから、単なる表現の問題ではない、もっと根本的に相互理解の接点を作りづらい局面に突き当たることもある。というか、「相当頑張っても伝わらない」ことの方が基本的に多い。

でも結局のところ、その困難を知ること自体が「伝え方」を考える最大の糧なのだ。

この経験は、文章の仕事にもおおいに活きた。「どうすれば伝わるのか」を考えることは、書き仕事の基本工程のひとつだからある。そういう意味では父にも感謝していいかもしれない。あまりに特殊なしつけではあったが……。


一方で、30歳くらいからだろうか。「だからぁ」的な主張も時にはありだよな、と思うようになった。

ありとあらゆることを「伝え方の問題」と考えるのも、それはそれで一面的だからだ。伝え方の問題があるのと同様、受け取り方の問題というものもある。

単純な話、人は他人の話を聞いていないこともよくあるし、時間の経過で受け取り方が変わることもある。伝える・受け止めるの組み合わせの妙は、片方の意思だけではコントロールできない。そこに対してあまりに激しく力むことは、それこそが他者の存在の否定や、支配にもなり得るのだ。

だいたい、「おにぎりがおいしい」とSNSに書いただけで「私は昔おにぎりを喉に詰まらせて死にかけたことがあるのでその発言に傷つきました! もっと考えてものを書いてください!」というアクロバットなリプライが飛んでくることもあり得る今の時代に、「自分の伝え方の何が悪かったのか」だけをひたすら考えていたりしたら神経がやられる。

「どうしてもこの言い方で伝えたい。今は伝わらなくてもいい」ということもこの世界にはある。

あるいは、相手を信じて「あえて」同じ言葉を繰り返す瞬間も。

伝える努力はしつつもそのくらいのゆるさでいい、というのが最近の私の基準だ。

とはいえ、私は今でも「だからぁ」とは言わない。同じことを繰り返すときは「もう一度言うね」と断る。「だからぁ」ではどうしても感じ悪く聞こえるし。

だから父が死んで20年以上経った今でも、この禁止事項は破られていないのだ。

読んでくださりありがとうございました。「これからも頑張れよ。そして何か書けよ」と思っていただけましたら嬉しいです。応援として頂いたサポートは、一円も無駄にせず使わせていただきます。