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嘘をつけるようになった話


幼い頃、母親が嘘に厳しかった。嘘をつくことがなによりも最も悪いことであると教えられた。暴力を振るわれるようなことは一切なかったが、存在を無視されるような叱られ方をしたことはあった。恐怖だった。それも嘘が原因だった。
憶測も嘘に含まれていた。買ってもらったばかりの虫眼鏡を紛失し、日頃意地悪をしてくる女の子が持っているのを見たような気がした。なくしたときにそれを伝えると、母親の怒りはとんでもなかった。なくしておいて人のせいにするような嘘をつくとは何事だと思われたのだろう。今もあれは彼女が盗んだ可能性は高いと思っているけれど、確かに証拠はないし、怒りの矛先を変えようとした意図が私になかったとは言えない。

とにかく、嘘をつくことは悪であるいう教えは、子供の私の全身に染み付いた。

それからあらゆる場面で嘘をつけず、大人になっても馬鹿正直ゆえに波乱ばかりを巻き起こした、という話になるわけではない。

なんということはない、高校生になった私は嘘をつけるようになった。
きっかけは小説だった。「嘘をつくのは悪いことか」というまさにドンズバのテーマで書かれた、おそらく児童書であったと思う。タイトルも作者も覚えていない。
そこで悩んだ子供は尊敬する大人から言われるのだ。「人を傷つけない嘘ならついてもいいんだよ」と。

それは魔法の言葉だった。呪いのように染み付いていた恐怖感が、一気に解けるのを感じた。

私は嘘をつけるようになった。罪悪感は「でもわたしは人を傷つけていない」という免罪符を前に、簡単に吹き飛んだ。
といってもたいした嘘ではない。だるいから体育をさぼりたいとき熱があると嘘をついたり、友達に内緒にしてと頼まれたことを別の友達に聞かれたときに知りませんと言ったり、彼氏と遊ぶのに友達とだと言ったり、それぐらいのことだ。(それすらも、私はずっと苦しかったのだ)


つい先日のことだ。注文した、大好きな香りのハンドソープがなかなか届かない。限定発売の新商品で人気があり、すぐに売り切れ、再入荷のお知らせを受けてようやく注文できたものだ。問い合わせようとしたとき、母親からメールが届いた。

「すてきな贈り物をありがとう」

え?

確認すると、私が注文したそれの届け先は、実家の住所になっていた。以前、別のものを頼まれて実家に送ったことが一度だけある。ぼんやりしていて、間違えたのだろう。
どうしよう、と思い、そして母親が不審に思わなかったことに少し驚いた。私は帰省のたびにお土産は渡すけれど、贈り物はそんなにしないほうだ。サプライズで届けたことなんて一度もない。

気付いた。その日が母親の誕生日だと。
日付指定はしていない。偶然だ。
そしてこのご時世でしばらく帰省できていないことが、私のサプライズを自然なものにしたんだろう。

「気に入ってくれて嬉しいです。お誕生日おめでとう」

これが、今まで母親についたなかで、最大の嘘。

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