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”アート”という言語。


今回のnoteは、僕が本当に書きたくて、書きたくなかった『アート』を題材にした。


きっかけは、写真家/映画監督である "蜷川実花" さん が運営する、クローズドコミュニティ『蜷川組』の0期生に選ばれたからだ。

1万人以上の応募者の中から選ばれた500人からなる、コミュニティの基盤を創るための”0期生”という立ち位置だ。


さて、本文は僕自身が「モデル」「ファッション」「デザイン」「経営」などに携わってきた実体験をもとにした考えであるが、決して価値観を押し付けたいわけではない。

あくまで一個人の考えであるし、「私はこう思う」という意見があって当然であると理解した上で、読み進めてほしい。


並びに本noteは、今まで僕の人生に影響を与え、これから共に作品を創り上げる、蜷川実花氏への感謝と、ラブレターである。



『アートコンプレックス』


「お前がアートを語るな。」


僕が実に、ちょうど250回は言われたことのある言葉だ。

そして決まって「アートとはなんだ。」と聞き返す。

その答えが同じであった試しがない。


理系の僕にとって、『アート』という概念的な”なにか”は、苦手中の苦手だ。

まず、答えがない。

なのに、答えがあるように振舞う奴がいる。

そういう奴は、決まって僕の中の答えを、否定するのだ。


僕は、アートが嫌いだ。



『なぜ、僕らは”アート”を語るのか。』


前述と相反して、僕らはアートが好きだ。

アートについて、よく語る。

なぜなら、”かっこいい”からだ。


”アート”という不確実性や、不規則性、非再現性が、なんだか「かっこよたらしめている」ような気がする。

インスタレーションアート(自分も作品の一部となる、チームラボのあれ)なんかはわかりやすいが、絵画や彫刻は、わかりづらい。

でもそこに、歴史や表現方法から、ロジカルな意味づけをしていき、価値を語る。

これが非常にかっこいいことなのだ。


こんなことを言ったらアーティストに怒られるのかもしれないけれど、「アートに興味があることはかっこいい」というのが一般的な感覚の、全てだと思っている。



『”ファッション”と”アート”』


僕が”ファッション”に興味を持ったのは、高校3年生の時だった。

友人の誘いで、ファッションショーを観に行った。


僕の目線と同じくらいにあるランウェイが、色鮮やかなライトに照らされる。

そして、聞こえた足音に遅れて、美しいドレスが姿を現す。

そこに伝わる”なにか”に、心を奪われた。


それから僕は、「ファッションとは何か。」という問いに対して、決まったこう答えるようにしている。


『生まれた国や、肌の色、目の色が違っても、何にも縛られず、自由に表現できるもの。』



『”言葉”という表現の限界。』


先ほど、「ファッションはノンバーバルな表現方法」というような書き方をしたが、僕が伝えたいのは、そういうことじゃない。

いま、人間の唯一のコミュニケーション方法と言われる「言葉」が、いかに”優れていないもの”であるかと、そう投げかけたいのだ。


僕が敬愛する、”朝井リョウ”氏のインタビュー記事で、悶々とした一文がある。


(前略)

95歳の親を看ていた75歳が老老介護の果てにその親を殺したとして、当てはまる言葉は「殺人」なのかな、とか。

とにかく、世の中にあふれる感情や現象に対して、言葉が足りていないな、と感じます。


僕はこの気持ちを、以前にも味わったことがあった。

森鴎外の「高瀬舟」だ。

苦しみながら死に近づいていく弟に手を下した兄は、果たして”殺人者”なのか。


朝井氏は上記に続けて、「だから、(中略)言葉の選択肢はできるだけ多く持った方がいいと思うんです。」と、語った。

しかしながら、これらを「言葉」という表現方法で表すには、限界があるように思う。



『彼女は、アートで語る。』


僕には6つ離れた妹がいる。

これがかなりのトンチンカンなのだ。

さっき登録したiPadのパスワードを、次に開くときには忘れるくらい。

それまでの時間、わずか2分。


2分前に設定したパスワードを忘れる彼女は、しゃべることも非常に下手だ。

頭の中で組み立てて話すことが苦手なようで、いつも文法がなんだか変になっている。


そして彼女は、いつも絵を描いている。

暇があれば、いつもだ。

元々は見るに耐えない下手さだったが、今では美大に入るほどには成長している。


まるで彼女は、”言葉”に振るはずのパロメータを、”絵を描く”ことに全振りした気すらしてしまう。

この時、僕は「アートとは何であるか。」という自分の中の問いに合点がいった。


『アートは、言語だ。』



『アートは、言語だ。』


言葉の拙い彼女が、表現を”絵”に頼ったように、絵画や彫刻、音楽などを”言語”として使う人たちがいる。

まるでプログラミング言語のように、その人に適した言語を使っている、という感覚だ。


考えてみるとそれもそのはず、”言語”という表現方法は、他と比べて歴史が浅い。

絵画や音楽の方が、はるか昔からコミュニケーションツールとして使われてきたのだ。


朝井氏は文字を、蜷川実花氏は写真や映画を”言語”として、伝えたい想いを表現している。

これを「才能だ。」という人がいるが、僕はそうではないと思う。

残酷なことに、それでしか表現できない人もいるのだ。

自分の伝えたいことが、言葉で表現できることは実に恵まれたことで、時に絵を、時に音楽を、使わなければならない人がいる。


アーティストとは、そういう生き物なのだ。



『”アート”という言語の可能性。』


「アートは言語である。」と説いたものの、その言語が正しい意味で伝わっているかどうかはわからない。

モナリザを見て、楽しそうな女性と感じる人もいれば、悲しんでいると感じる人もいるだろう。

言葉ももちろんそうなのだが、アートは受け手にとって感じ方が大きく変わるので、これを言語として成立させることは難しいように思える。


しかし、この考えこそが、コミュニケーションにおいての『言語至上主義』がもたらした弊害であるのだ。

『解釈の画一化』というのは、先述した「殺人」という言葉のように、それが善意であっても、どのようなシチュエーションであっても、悪意をもった「殺人」と同様の意味合いを持ってしまう。

それに対して『解釈の多様化』は、そこに様々な意味をもたらす。

それを善と捉える人もいれば、悪と捉える人もいる。


それこそが、”アート”という言語が秘める可能性なのだ。



『”アート”って、おもしろい。』


つまるところ、言葉も、絵も、アートであって他ならない。


僕が伝えたいのは、こういうことだ。


起業家が生み出したプロダクトも、深夜の病みツイートも、お母さんに感謝を伝えるためにクレヨンで描いたグチャグチャの絵も、誰かに何かを伝えるために生み出された表現(アート)である。

それは理解するものと理解できないものがいて、これが非常に言語と近い。


でも、やってはいけないことがある。

それは「否定すること」だ。


たとえ理解できなくても、それが人生を削って生み出した表現であることに変わりはない。

そもそも理解できないことは、言語が違えば当然のことだ。

こう考えると、理解はできなくとも、相手の表現を尊重することはできる。


僕も道半ば、この端からすればオナニーのような文章に、その内容に、揺るぎない答えがあるわけではない。

いや、そもそも答えなどなくて、あったとしても言葉で表現することは無理なのだろう。


ただひとつ言えることは、自分の想いを表現する人たち、あなたたち全員が『アーティスト』であって、アートを語る権利があるということだ。

アートは、それほど身近なもので、表現を、人生を豊かにしてくれる。


だから、アートって、おもしろい。



【蜷川実花】


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