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【備忘録】初めての避難体験

1月1日の能登半島地震。新潟の祖母の家で揺れを感じた。そこは日本海から7軒目。津波警報が出て、避難した方がいい気がしたので、すぐ近くの中学校まで避難することにした。

外に出てみると、ご近所さんも外に出て来て周囲の様子を窺っている。避難するか迷っている方もおられ、みんなで避難しましょう、と声をかける。それでも僕は家の2階にいるよ、というおじいさんがいたのも事実。でもみんなが行くなら、と避難を決めた人もいた。祖母は近所の人たちと顔見知り。同じ通りの人が一人暮らしなのかといった状況もある程度はわかる近所付き合いがある。足の悪い高齢の方は避難することをかなりためらっておられたけど、説得して一緒に向かう。寝たきりの方がいらっしゃる家も、家族がいることを知りつつも、チャイムを鳴らして声をかける。(この家の方は、その時には既に車いすで避難する準備をされていた。)声をかけ合えるご近所さんとの関係は素晴らしい。こんなことをしていたら家の前の通りを出るまでに、地震発生から15分ほどかかっていた。震源が遠かったので、今回はまあ問題ないと思っての15分ロスであったが、震源に近かったらもっと緊迫していただろう。

ちなみに家を出るまでは、あったかい恰好をして、ストーブを消す、くらいしかできる余裕はなかったことを付け加えておく。電気をつけっぱなしで家を出てしまったので、日が暮れて帰って来たら家の中は丸見え…それくらい時間はないので、普段から避難グッズをそろえておくことが重要であることは言うまでもない。

さて、避難所の中学校に着くと、しばらくは2階以上の廊下で待つ人が多かった。お正月だったので、家族と避難してきている高齢者も多くみられた。高齢者1人だったら避難してきただろうか、と考えてしまう。

電気、ガス、水道は問題なかったので、しばらくすると暖房をつけた教室を解放してくれた。寒い冬に暖房が使えたのは幸いである。その後、水、ビスケット、毛布が必要な人に配られて、1つの部屋に1つ、情報源としてラジオも置いてくださった。黒板には「わかっていること」がひらがなで書かれていた。全員に同じ情報を提供し、混乱を防ぐ、というのが自然とできていた。実際に目立った混乱もなかった。

このような運営をしてくださったのは誰であったのだろうか。地域の会長のような方は確かにいらっしゃった。でも実際に積極的に動いていた多くは20~30代くらいの若者であった。避難先の学校の先生ではなさそうであったし、どんな人たちだったのだろう。訓練をしていなくても自発的に動いた人たちの集まりだったのか。訓練をしていたとしたら、若者として地域の活動に参加するモチベーションは何だったのか。すごく聞いてみたかったけど、邪魔をしては悪いなと思って遠慮してしまった。

次があるとは思いたくない。でも、あるかわからない今回のようなときのために、今回私の避難先でみた素晴らしい避難所の運営を、他のところでも実践するにはどうすれば良いのか、と考えてみる。実際にどのような方たちが避難所を運営してくださっていたのか知らないとすべてが想像の域を超えないが、まずはこのような事例があったことをここに残しておきたい。そして、彼らに称賛の言葉を届けたい。あるかわからないときのために活動をすることは、普段は人目に触れず、とても地味なことで、継続するのが難しいだろうから。

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