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根底を流れるもの

どうしても譲れない自分の中での正と義がある。

「何のために生まれたのか何のために生きるのか」

小さな頃から繰り返し、問いかけてきた。
その答えを握りしめることで、自分の存在を認めてきた。
自分の異質性を、特徴だと捉えることで、自分にしか出来ないことを求めている。

全ての行動の指針となる価値観・・・。
格好いいか、格好わるいか、魅力的か、魅力的じゃないか、好ましいか、好ましくないか・・・そういうことの判断基準は人それぞれだ。

私のものさしで、一番大切な部分。
それは、自分だけではなく他者へのまなざしを持てるかどうか。

目先の利益ではなく、もっと先を見据えて考えられるかどうか。
自分とは違う意見であっても、否定ではなく理解できるかどうか。
スマートに器用に上手くやろうなんて思わずに、体当たりが出来るかどうか。そんな努力を馬鹿にせずに、意味を見出せるかどうか。

もちろん、それら全てがNOである人がいてもいい。
だけど、そういう人と一緒にいたいと思うかどうかは別だ。
自分が一番大事にしている部分を、見せ合わずにどうして一緒に過ごすことが出来るだろう?
それも、表面だけの軽いものではないなら尚更だ。

私のしようとしていることを、無駄だと思う人がいてもいい。
目に見える形に結実しない努力でもいい。
人と人との出会いや、小説や映画との出会いで起こるような人の心の中の小さな化学反応が、私が存在することで、少しでも沢山起こせたらいい。

・・・そうはいっても、不安になることだってある。
そういう自分を、分かって欲しいと望むことだってある。
目に見える形が見えなくて怖いのは、私自身だ。

だからといって、可視的な結果が出ないのならする意味がない、なんて思わない。


(2004年12月7日の私のブログ ”Here am I. Who am I?”より転載)

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