5.vola_のコピー

美しきバルール3 六法全書とカラヤン

凛が生活をおくる寮は、もともとどこかの社員寮だったらしい。

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社会生活ができない、でも病院や公的な施設に強制入所するほど重度ではない。そんな社会のはざまにいる子供や大人が全国から集まってきた。

東京の片隅にある本部から山奥にある農場へ。農場でキツい研修を終えたら東京に点在する寮で社会復帰めざして就労しながら共同生活を送る。凛の寮は大人と子供が半数ずつくらいだったろうか。

新しく寮生に加わった志村は30代の男性。いつも分厚い辞書のような本を小脇に抱えている。凛と同室のミヨが「あれば六法全書っていう難しい法律の本よ」と凛に教えてくれた。"ロッポウゼンショ”13歳の凛にはわからないが、志村の目の瞬きの多さは、そのまま頭の回転の速さを示しているようだった。

「T大の法学部出てるんですって」ミヨが嬉しそうに続けた。ミヨは寮の男性の情報に誰よりも詳しい。この寮は珍しく男女の共同生活で(収納人数が多く、男子寮、女子寮どちらかに分け辛かったのだろう)深夜にあると部屋を抜け出し何処かへ消える。早朝に忍足でもどってくるミヨは上機嫌だ。情報源はミヨの深夜の活動によるものらしい。

こないだまでビルメンテナンス会社のリーダーを務める菅井を素敵だと褒めていたが、志村と菅井は正反対のタイプだ。菅井は寮を卒業間近といわれている。誰にでも親切で、好き嫌いの多い凛も菅井は大好きだった。

ミヨは恋多き女である。会社員を長く続けていたそうだが、社会生活をうまく送れない鬱憤も全て恋愛に向かっているようだった。23歳下の菅井にアタックしてふられたのだろう。目の瞬きがやたら多い志村もミヨの好みなのだろうか。凛は妙に感心した。

一見大人しく模範生の志村は、細かいこだわりが沢山ある。その一つがクラシック音楽。とりわけ指揮者のカラヤンに傾倒していた。カラヤンの魅力について語る時だけ目の激しい瞬きはとまる。

ビルメンテナンスの仲間内でも志村のクラシック好きは有名だ。薄暗い休憩室でみんなが談笑する昼休みも会話に決して参加しない。カラヤン指揮のクラシックを貪るように聴く。寮で同室の林とその音量を巡って大喧嘩になったことがある。頑なさから職場でも対立が絶えなかったが、誰かと揉めた日は見えない指揮棒を狂ったように振りヘッドホンから大音量のクラシックが聞こえた。

「カラヤンが日本に来るんですよ!」ある日、志村の叫ぶような声が聞こえた。「カラヤンって、、志村君ここへ来たばかりじゃないか。」寮長のなだめる声。「たかが指揮者じゃないか。自分の未来の方が大切だろ」この寮長の本音は余計だった。志村は興奮してさらに叫ぶ。「ただの指揮者じゃないんです!カラヤンが来るのにコンサートへ行く許可をもらえないなんて!今世紀最大の指揮者なのに信じられない!」

翌日、志村は荷物をまとめていた。「コンサート行けるようになったんですか?」凛が尋ねると「許可は出ません。だからここを出ることにしました。あの偉大な指揮者の演奏が見れないんておかしい。」まだ少し興奮した口調で答えた。

志村はなんでも知ってる。誰もが羨む高学歴をもち、凛が知らないこと他の寮生の誰よりもいろんなことを知っていた。何か問題が起きて寮で話し合う時も、早口で論理的に志村が話すと寮長すらも太刀打ちできなかった。でも、なにかがちょっとずれている。そのちょっとが難しいのだ。そのちょっとが社会では大事なのだ。

段ボールを抱えて、車に乗り込むの後ろ姿をみながら、凛はそう思った。

志村はカラヤンのコンサートの後も、そのまま寮に戻ってくることはなかった。

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