明日も生まれる3 「新しい命」完結
あらすじ: 毎日の2人育児に疲弊するわたし。繰り返される日常の中、ふと長男 一馬からの「魔法の言葉」に勇気付けられる。
♢
結局、達也をお風呂に入れるのを諦めて、リビングの隣の和室で左手が痺れるくらい達也のお腹と宙をトントンと行き来していた。
19時過ぎに保育園から帰ってきた一馬の「おかえりー!」の第一声に「ただいまでしょ」と言い間違えを正したくても、喉元を声が通らない。
「ただいまだろう?」
旦那の声が聞こえる。
リビングの扉が音もなく開かれるのを、息を殺して聞いていた。達也がお昼寝中の暗黙の了解だ。
「ただいま…おー、こりゃ…部屋の汚さのレベルに拍車かかってんな…」
なんで彼は、扉は音なしに開けられても声の強弱は調整できないんだろう?
和室の引き戸を開いた瞬間に、心に並べ立てられていた言葉は満を持したように心の扉を開け放つ。
「だって疲れてるの!授乳でもどんどん力奪われるし、何やっても一度泣くと泣きやまないし!なんでかわかんないけどやる気も何も起こらなくて!…なんなのよ…」
「あ…ごめん。そんなつもりじゃなくって…わかった…」
ぽつりと旦那の言葉がカーペットのシミに落ちる。私はそれを見つめる。
ーー掃除しなきゃ…
心臓をえぐりとられるくらい、『わかった』という言葉が辛かった。吐こうとしていた息が上手く外に流れず、体内で黒い塊になってじゅくじゅく膿んでいく。
「俺、先に一馬と風呂入ってくるね…」
合わせられない視線の行き着いた先は、あかぎれの旦那の手だった。
そうだ。職場のある八王子は府中よりも断然寒くて学校でチョークを握る手もかじかむと言っていた。
彼は申し訳なさそうにネクタイにその手をかけて静かに緩める。そのまま背を向けてリビングを後にした。
ソファに雪崩れ込むようにして体を預けると、達也の中の恐竜が「ビエエエエ!!」と騒ぎ出す。スイッチの入った壊れた洗濯機のようだった。
私のため息はシャワーの音や、リビングのドア、何層もの膜に阻まれて旦那の耳には届かない。
「ママぁ」
振り向くとパンツ姿の一馬が手に何かを持っている。私の目線の高さで「大丈夫?」と囁くと、ソファの背もたれに写真を立てかけた。
旦那と一馬と臨月の時の私。満開の桜の前で笑っている。
マンションの前の道路沿い。突き当たりの大きな緑に溢れる公園まで、その一本道は春になると桜のピンクで目が霞むくらい美しい。
「パパ、ママ、かずくん、たっくんは?」
「たっくんは…ママのお腹の中。この時は」
達也の泣き声に掻き消されるくらいの声で受け答えると、当の達也が私の膝下まで這ってきていた。
「そぉかぁ!これからうまれるんだねぇ」
一馬は写真の中の私のお腹をじっと覗き込む。人差し指の腹で撫でると達也に笑顔を向けた。
「たっくん、あしたもうまれていいよ、ねっ?たっくん」
ーー明日も生まれていいよ。明日も…
黒々とした達也の柔らかな髪。撫でる一馬の両手に収まらないくらいに、この4ヶ月で急成長した。
子どもは毎日成長する。もう一馬が生まれた時を思い出せないほど、いつのまにか彼自身も幼児から少年の顔に変化してきている。
新しい自分になっている。
子どもの言葉は光の玉になって、大人の心の襞を柔らかく包み込む。それは思いがけない言葉の魔法だ。
「おいで…」
泣きじゃくる達也を胸に抱き寄せる。鼻をすすりながら小さな喉仏が何度となくひくついた。
シャワーから出た旦那が「達也がママとお風呂入りたいって」と言ってテレビリモコンを操作する。
真っ白なコートを羽織ったお天気お姉さんがテレビの向こう側に語りかけていた。
『東京の先週の開花予想は、22日だったんですが寒い日が続いたので少し延びて26日の日曜日になりました。満開を楽しめる週末は、翌週の4月1頃でしょうか』
「さっきそこの通り歩いてたら、もう5、6輪咲いてたよ。まださみぃけど、春来たなぁ」
桜の花が開くように、新しい命が色んなところで生まれていることに旦那の言葉で気がつく。
そして静かに形を変えて行く。
「外、食いに行く?今日」
「え…でも掃除とかしなきゃ」
「いいだろ。明日土曜だし、俺がやるよ。ほらっおいでたっくん」
大きな旦那の腕の中に収まる達也。まだ眠いのかその二重が微睡んでいる。
「家事なんて、てっきとーでいいんだよ。なぁ?たっくん、一馬」
「うん。ぼく、おちゃづけでもいいよ。サイゼリアとかジョナサンとか、ローソンでもいいよ」
「な?子どもだってこんなもんだよ」
繰り返される毎日。洗濯物。掃除。ご飯。お散歩。その合間に響く泣き声。
繰り返されるようで新しい毎日。
そして少しずつ変化する。
明日も、生まれ変わる。
「あしたもうまれていいよ」
魔法の言葉だ。
fin.
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