明日も生まれる2 「目をそらせて」
あらすじ: 毎日の2人育児に疲弊するわたし。繰り返される日常の中、ふと長男 一馬からの「魔法の言葉」に勇気付けられる。
♢
とかれた髪が重力に素直に沿って洗面ボールへ抜け落ちる。1本、2本どころじゃない。
産後の母親の体の中は急激に細胞同士が打ち合わせしていたかのように変化する。髪が抜けるのは個人差があれど、ピークは産後3ヶ月から6ヶ月の間だ。通常の抜け毛が一日100本から150本に対し、産後の女性は200本から300本、多い人は400本失われると何かの情報サイトで見てから鏡を見るのが恐ろしくなった。
それでも自分の顔とは一生の付き合いなのだからと、最低でも朝と夜、2回は見るようにしている。
昼を過ぎても寝いらなかった達也が寝息を立てたのは午後4時過ぎだった。
今日はお風呂に浸かりたい。
ーーちょっとだけでもいいよね
そう自問自答して脱衣所に立ったのだ。
昨日も眠れていない。2時間おきに天を突き抜けるように金切り声を上げる達也。手に届く範囲で安らかに寝息を立て続けるご主人様と3歳の一馬。起きない。いつものことだ。
慣れていたはずだった。問題など一切ないはずだった。私は母親だから。私が産んだ子だから。
鏡の前でルームウェアを脱いで鼻先にそっと当てると、僅かに乾いた汗臭がした。紐付いたように昨日見た夢を思い出して、洗濯機に投げ込む。
掃除の行き届いていない鏡を見ると、締まりのない贅肉がショーツの上に被さるようにのっている。左右の胸も同等な形をとどめていなかった。乳首の切れた左胸はもう母乳が出ない。
ーーあの職場に復帰する前に体元に戻さなきゃ
服を全て買い替えることにはしたくない。
不動産のカスタマーセンターは負の連鎖が断ち切れない。いつも誰かが誰かのせいにして自分の非を認めない客からの入電。それを受電する我々の中にも面倒な仕事を請け負いたくない人間は其処彼処に存在する。
スタッフの一人に発覚した一つの小さくて大きな命。結局は他人なのだ。女性チーフの五十嵐さんは気に留めず、産休前の仕事の引き継ぎは大きなお腹を抱えた自分にはストレス以外の何物でもなかった。
矢継ぎ早に「これも、これも、これも入居者と業者に連絡を入れて確認してください。面倒なことは残されても困るので」と関連資料を手渡されたあの時のことが、産後になって夢に現れた。
達也の声。夢の中の声。人の声が朝も昼も夜も途切れることがなかった。
気づくと身体中が多量に発汗しているのだ。
バスタブがお湯が溜まったことを伝えた。風呂場に片足を踏み入れた瞬間、忘れていたはずの達也の泣き声が背中を刺すように届いた。
立ち上る湯気を逃さないように蓋をして、同時に両手で耳を蓋してみる。
あの飛行音がいつまでもクリアに脳裏に響いていた。
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