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深呼吸はルソーで -4-

□深呼吸はルソーで

***

図書館が入っている教育センターの一階には「カフェ・ルソー」がある。扇型の店内は入り口付近のレジから奥の席まで一目で見渡せた。皆、一席ずつ空けてソファ席に腰掛け思い思いの時を過ごしている。

私は図書館が好きだ。働く仲間も、静かなその空間も本も。だから例え休みの日でも、職場の近くで過ごすことも嫌ではなかった。

土曜の休みの日、ルソーでお昼を取ろうと開店の時間に足を踏み入れる。まだ他のお客さんはいなかった。

「やった、1番乗り」
「沙羅さらちゃん久しぶりだね」

ここに10年勤める店長とは仲が良かった。店長も本が好きで向かいの図書館に本を借りにきていた。

大きな窓から注がれる光に背を向ける形でソファ席に体を預けた。大好きなビーフカレーを頼んで、「窓の魚」のページをめくる。白鳥晃にお勧めしてから久しぶりに再読を始めた。

彼はどのページまで進んでいるのか、そんなことを考えながら透明感のある言葉の羅列に目を凝らしていた。

「いらっしゃいませー」

店長の声に反応して顔を上げる。

白鳥晃。

2回目は心の声を実際に声に出すことは無かったけれど、いつもとは違う姿に目を奪われた。

チェスターコートにシャツ、スキニー、革靴とドレスアイテムを使いながら、網目がざっくりのローゲージで柄のあるニットでカジュアルダウンしていた。

勢いよく自分のカジュアルすぎる服装に目を落とす。いつもと変わらないタートルネックにジーンズ、古びたスニーカー。髪型もいつもと少しと変わらず後ろで結っていた。

ああ、ダメだ。

結っている髪を一瞬で解いて手ぐしで雑に整えた。気づかないフリをして本を読んで俯いていると、目線の先に彼の革靴があった。

「花井さん?」

***

花井さんの胸まで下ろされた髪を初めて見た。
絹のような艶は背後からの太陽から一層光を集めていた。

「お仕事の合間ですか?」
「あ、いえ、今日休日なんです」

彼女にしては珍しい土曜の休日だった。

「白鳥さんは?」
「僕も、休日です」

コートのポケットから「窓の魚」を取り出して彼女にアピールした。

「文庫本を収めるにはいいサイズのコートなんです」
「なんの鞄も持たずに文庫本だけって、なんだかオシャレですね」

彼女がほんわか笑うのを見て、どの位置の席につこうか迷っていた。

「もし良かったら隣…」

互いの声が同時に辺りに響いた。

彼女の隣に腰を下ろして、伺う。

「花井さんは何の本読んでたんですか?」

ブックカバーのかかった文庫本サイズの書籍を指差すと、彼女は照れたようにカバーを取り去った。

「窓の魚です……再読中で…。白鳥さんにお勧めしてから、本当に面白かったどうか不安になって。もう一回再読して確かめようと思って」

一瞬、はにかむ彼女をぐっと抱きしめたくなる衝動に駆られた。

「そんな、心配することないですよ。その時読んだ自分の感覚を疑うんですか?」
「ええ……」
「自分のこと信じてあげないと、いつまでも得体の知れない不安に駆られますよ。生きづらくなっちゃいますよ」
「そう、ですかね…」
「そうですよ」

彼女と話しながら脈打つ感覚が狭くなった気がした。悩みの大小は違えど、根本的に自分自身を信じてあげられないのは、自分も一緒だと思えたからだった。綺麗な言葉をかき集めて切り貼りされたような文章を自分のどの口が言ってるんだと呆れた。

***

彼の借りる本はいつも多岐に渡っていた。海外小説から歴史書、それに関わる関連書まで読みこなしているようだった。それは、彼の図書カードの履歴を見ればわかる。

本の後読感や、それに対する自分の中の価値の位置付けは人それぞれ違う。それでも、人生の中で「本」が大事な心の栄養になっていることには違いない。多読する中で、私は一つでも彼と共感出来る何かを共有したかった。

不安だった。私の感覚が、彼と共鳴出来るのか。

「今から読むんですか?」

恐る恐る彼に伺う。

「途中まで読みましたよ。面白いです」
「あっ!そうですか?」
「 ナツ、トウヤマ、ハルナのそれぞれの視点まで読みました。残すところはアキオです」
「あーよかった」
「でも今日は読まなくても別に…」
「…私もー、別に…」

本に関わること以外で、何か個人的なことの話のネタを探そうとしても、なかなか言葉にできないのは彼自身のことを何も知らないからだと思った。それでも、今は本に目を通さずお互いに発する言葉に集中していたかった。

「結構、全体的に不安な空気感を透明感のある文体で纏ってる感じは、好きです。僕好みです」
「人間の心の中って、生々しいですよね。お互いの気持ちを探り合って、優しい気遣いも時には残酷で。読んでる最中に自分に焦点を当てると、うーん、自分の人生なんだかなって思います」
「花井さんって小説書いたことあります?」
「いえ…」
「花井さんに合ってるかもなって思って」
「そうですか?」
「うん」

自分にはなんの特徴もないと思っていた。
将来の方向性は自分で決めるものだと思っていたけれど、きっちりと自分自身で責任を背負いこめば、誰かの言葉にならってみてもいい気がした。

「人間って面倒臭いじゃないですか、最近、特に面倒だなって思いますよ。俺の周辺では。小説にしたら登場人物全部ダサいヤツばっかりかも、俺も含めて」

お互いに吐き出す言葉はミルフィーユのように薄い層で重なり合っていき、まるで心の中の言葉にし難い核心部分に触れあうような時を過ごした。

***

花井さんの居場所を予知していたわけじゃない。
本当は、土曜の休日をゆっくり自宅で過ごしたかったけれど緑の気配を感じていると体も休まらなかった。

あの本を返却した日、自宅へ戻ると緑は血相を変えて俺に飛びついてきた。

どこにやったの?
なんで返したの?
あたしは晃と乗り越えたいの

乗り越えたいってなんだ?あんな本に頼ったところで一旦崩れた関係はそう簡単に修復できない。3年前、問題なく付き合っていた頃を今はもう思い出せない。中央道の玉突き事故から2年、彼女の体は回復したものの事故の影響なのかどうかは不明だが妊娠しづらいことが判明した。将来的には子どもが欲しい俺にとって、「君がいれば十分だよ」とはどうしても言えないでいた。結局は俺の器の問題なのか。それが緑だからなのかわからないでいた。ただ、俺は俺自身が残酷な人間だということから逃れられないことに悶々としていた。

「メンドくせぇ性格だな俺」
「え?」
「あぁ、いや…」
「なんか、俺、俺にとって小説って、現実から逃げるための道具なんです。読んでると、その時だけ忘れられる気がするから」
「現実……あの、あの本、ですか?」
「え」
「不妊の……」
「……」
「あっ!あ、あ、すみません、込み入ったこと聞いてたら、ごめんなさい。無理に喋らなくていいですし。なんとなく思い出しただけで…」
「まいったな……」
「え……」
「…嬉しいです。誰にも、言えなかったから」

背中にそっと触れられた花井さんの手は確かに暖かかった。

「いつも、きっちりとスーツ姿の白鳥さんしか見てないので、基本、出来る男性のイメージしか持ってないんですが…たまにはこういう白鳥さんも、いいと思います。深呼吸はここでつけばいいです」

どこへ向かうかは自分で決める。それは分かっている。
でも。でも今だけは深く深く、深呼吸をしたい。

***

白鳥さんに聞くつもりは毛頭なかった。
あの不妊の本の事を聞くことは、相当プライベートなことに土足で踏み込むような真似だと思っていたから。

けれど彼の横顔は苦しみと哀しみに満ちていたように見えた。

あの一冊の本は、きっと彼の時を止めていたのだろう。
私にとっての一冊の本は、彼の救いになっているようだった。

気がついたら彼の大きな背中に自然と手を沿わせていた。

「深呼吸はここでつけばいいです」

太陽の光がいっぱい降り注ぐ店内。彼の背中は私が触れなくても冬晴れの光で温かくなっていた。

今度は、どんな一冊を彼に手渡そうか。

Fin

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