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深呼吸はルソーで -3-

□俺の日常

朝焼けに煙草の煙が霞む。
その時、ピコンと携帯のタイムスケジュールが音を立てて知らせたのは「本、返却日」だった。
少しでも苛立ちを軽減させるために2本目の煙草に火をつけた。

緑は相変わらず引きこもっていた。ダイニングに置かれたあの本は読まれた形跡がない。彼女は「読んでる」と主張するものの、俺が置いた位置から1ミリでも動いた形跡がないのだ。12/10の今日が返却日だとは散々吹き込んだつもりだ。読んでも読んでなくても、必ず俺は返しにいく。時間外で図書館にポストインだ。

『不妊治療・食事と生活改善』

その本のタイトルが帰宅の度に目の奥に突き刺さってくる。その度に、ただの同居人の嫌がらせだと自分に言い聞かせる。

煙草を水を張ったバケツに放り込み、朝焼けに背を向けて自室を抜ける。ダイニングには借りてきた時のままの本が置かれている。目のやり場を緑の部屋の扉に移すと無防備に大きく開かれ、その先には羽毛布団に包まれた緑がスヤスヤと寝息を立てていた。敷布団から手を伸ばせば届く範囲にゲーム機やらお菓子やら漫画が散乱している。いつもとなんら変化のない日常だった。

「おい、もう返すぞ、この本。返却日だから」

彼女の背中に投げかけた言葉は、間に挟まれた羽毛布団に吸収されたのか、その返事はない。

「はぁっ!」

これみよがしに溜息を吐いてもまったく振り返る素ぶりもない。もう12時間も寝てるのにまだ寝てるのか。

玄関の鉄の扉をいつもより大きな音でガタン!と締め切ると同時に凍てついた空気が肌に張り付く。外に出ても、どんなにドアを強く締め切って彼女の住む世界との断絶を図ろうとしても、現状は何も変わらなかった。

会社に行く前に図書館の返却ボックスへ本を投げ入れた。いつもの会社の昼休みの時間に返却に来ると、花井さんがカウンターに座っているのは確実な分、実際目の前で返却するのは気が引けていた。

返却ボックスの前で一瞬立ちすくみ、苦笑した。
あの本を借りて変な先入観が花井さんにつくのが嫌なだけで、花井さん自身と俺の接点は図書館員と利用者というだけなのに。

既に別れたはずの緑はまだ俺の部屋に居座っている。
別れたと思っているのは未だに俺側だけなのかもしれない。緑がまだ終わってないと思っているんだろう。あの本を借りてきてほしいと言っている時点でその声なき声は嫌でも心に届く。

18時。心と頭に雑音を残しながらする仕事ははかどらなかった。特に今日は。

いつのまにか足取りはまっすぐ図書館に向いて、脚立に座って図書整理している花井さんの姿を確認した。
近づくと目を丸くした彼女から「白鳥さん…」と言葉が漏れてきたことに内心驚いた。多くいる利用者のうちの1人だと思っていたから。

彼女のお勧めの本を借りよう。図書館だから。
それで心を通わせるくらい、別に不適切じゃないはずだ。

「窓の魚」
彼女から手渡された本だった。
彼女が目で追った文章を、俺も追おう。

#小説 #短編 #コンテスト優秀賞作品 #片想い


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