見出し画像

読書日記:『人類最古の文明の詩』大岡信

Twitterで本が読めるようになると書いたこの日から枷が外れたように本が読みたくなり、最初に手に取ったのは『借りの哲学』だったのだけれど、しっくりこず、ようやく一息つけたGW明けの今日、ソファーに寝転びながら読み終えた『人類最古の文明の詩』。

もう何年も前に買っていつか読もうとおもっていた本の一冊で(わが家の大半の本はそれ)、これを買った新宿ブックファーストだったような、たしか東京にいる頃だった気がする。

大岡信の語る、詩についての四つの文章。

本を読むと、読んだ端から内容も感想も忘れてしまって、ただただその衝撃や匂いや雰囲気だけが残り続けるというのが、わたしの読書の定石であったので、毎章を読むごとにメモをしながら、読んだ。そのメモがこれだ。

人類最古の文明の詩

ひとつめの章は、タイトルにも使われている「人類最古の文明の詩」。

短歌や俳句や詩を引きながら話は進んでいく。彼の文章によると、

詩というのは、「実」の世界に住んでいる、また住まざるを得ない人間の、なぜかわからないが非常に欲することのある「虚」の世界の一つだろうと考えています。

とある。

ながらく、なぜわたしが詩が好きなのか、わからずにいる。詩は乗り物と書いたのはもう何年も前。

大岡信は古い時代の詩を引きながら、ほら、今も昔も同じように、人間は考えているでしょう、まるで詩はタイムカプセルのようだ、とわかりやすく語ってくれる。半分納得し、半分納得できない。昔の人間が同じことを、考えていたからといって、なんなんだ、という気分にもなる。ただ、大岡信が言うように、

われわれは、不思議なことに、現代のものと古代や中世のものと、どちらが進んでいるか、にわかに断言できないような領域にある作品に触れると、かえって心が非常にさわやかになったり新しくよみがえったりすることがある

ようなことは、身に覚えがある。
それが、なぜなのか、今のわたしにはまだよくわからない。違う時代の匂いを、嗅げるからなのか。現代の詩とは違う何かを感じることは、たしかにある。

歳時記や百人一首が日本人に親しまれていることの特異さを語るところも、そうかもなぁと思わされる。

この章の中で、日本の詩というものは、社交の場であり、挨拶であった、という記述がある。なるほどなぁ、ともおもう。誰か1人に向けて、花を折ってもたせるように、詩を贈ること、それはなんだか、とても素敵なことのように感じて、わたしも、やってみたくなった。

後半は、大岡信が若い頃におおおっと思い親父に隠れて読んだ詩たちが載っている。おおお、とおもう。なぜ、そうおもうのかは、わからない。同じような青いぼんやりとした光のようなものが言葉のうしろに透けるような詩たち。大岡信はサービス精神のある人なんだな、と思いながら、読む。前半は、落語でいうところの枕で、わたしたちが入ってきやすいような、導入だったのかもしれない、という気がする。

前半の文章の中で最も印象に残った文章をもう一度形を変えて引用しこの章は終わる。数学者の遠山啓さんの言葉らしい。

機械ではどうしても人間に及ばない能力というのがあります。それは何かというと、あいまいな前提から出発して、あいまいな結論のまま終わることのできる能力、それでいて、全体のバランスはちゃんととれ、安定しているという能力ですね。そういう能力が人間にはあって、それが結局、最後まで人間独自のものとして残るのではないかと思いますよ

大岡信の詩をほとんど読んだことがなかったのだけれど、この章の最後の方に掲載されている彼の詩は、彼の好きな詩のように青くぼんやりしながら、金色に輝いているように見えた。かわいいボーイだ。

インド・中国・日本の詩の根源的なちがい

二章目、まず書き出しがかっこいい。

「東洋の詩」というものはどこにもない。インドの詩があり、中国の詩があり、日本の詩があり、チベットの詩があり、ビルマの詩があるだけだ。言葉の異なるところ、必ずその言葉独特の詩があり、独特の詩しかない。

その後にインド人の持つ極楽世界の観念イメージ、引用されるインド最古の文献リグヴェーダの有名な讃歌が、あまりに、かっこいい。

大学生ころ訪れたインドのあの大きな大きな泥川のようなガンジス川を思い出す。
1週間はカンボジアのシェムリアップへ、その後1週間はタイのバンコクへ、その後最後の1週間をインドのデリーからバラナシへ行くという旅行をした。
カンボジアのシェムリアップは、欧米人と屋台の多い一大観光地であり、タイのバンコクはまるで故郷の沖縄のようだった。インドはどの国ともまるで違い、大きくむっとした圧がずっとこちらに覆い被さるようだった。

「ここに、死ににきた」と話す枯れ木のような老人、毎朝朝日を浴びながらガンジス川で体をあらう太ったおばさんやおじさん、その川で流される死体は下流でまるで焚き火をするように焼かれている。日本とのあまりの違いにげっそりしながら帰ったインド、あの大きな土地と川のイメージが、まざまざと思い出される。

いつからか、海外の詩や文学を読まなくなった。あまりに訳者によって左右されてしまうのでは、という気持ちと、読みきれないほどに日本のものが出ているのだから、日本語のものを読めばいいや、という気持ちが、ずいぶん変わった。

その土地の言語で読めなくとも、訳されたものでも、感じるものがあることを、思い出させてくれた章。

インドの詩の哲学的、論理的、超越的性格の一片もなく中国詩の複雑精妙な形式的整合美でもない(短歌形式などいうものは、中国の詩形のけんらん豪華な風姿と較べれば、形式というのも愚かな自然的発生物にすぎぬ)日本の詩はまことに可憐にして淡白な性質なものである。まったく絶望的なほど、規模の小さい、スイトン風な味の詩、これが日本の伝統詩である

の文章は、ちょっとくすりとしてしまった。

「もののあはれ」についての記述もあるが、いまいちぴんと来ていなくて、ここを理解するにはまだ時間がかかりそうだ。

わたしのアンソロジー

三章目、大岡信はなにかに怒っている。同時になにかを面白がっていることはわかるが、それがなにかを今のわたしにはうまく掴めていない。あと2〜3度読まないとわからないような気がする。かっこいい言葉はそこここにあったので、それを抜き出すことにする。

アンソロジーを訳して詞華集という。
詞の華はどこに咲くか。咲くところは空より他にないだろう。心の空。
しかし心の空に咲いた詞の華を、あちらを切り、こちらを集めして成った詞華集というものが、おおむね退屈なのは一体どうしたわけだろう。

名称というものは仮りのものにちがいないのだが、その仮りのものがなければ歴史というものはありえなかったのである。

こうした伝統の中で、物に寄せることなく、ひたすら心のあこがれだけを歌いつづけた和泉式部の歌は、まことにめざましいものだったといわねばなるまい。彼女の好色も彼女のアンニュイも、時によってついに磨滅しない彼女の声の中で振動しつづけ、ぼくらに魂の空間というものをいやおうしに想像させる。

『正法眼蔵』と『梁塵秘抄』が読みたくなった。

詩における歓びと智慧

四章目。わかる!!とおもうところと、まじでわかんねぇ〜というところの差が激しい。かっけーとおもうところはめちゃくちゃ多い。

かっこいいところの抜粋。

実をいえば、言葉は発明できるものではない。言葉は発掘することによってしか新しい生命をそれに与えることはできないのだ。言葉を発掘するということは、いうまでもなく、言葉が内に蔵している、過ぎ去った歴史や、歴史を形造っていた自然や社会の体臭を、新しい人間の嗅覚によってかぎわけ、それをぼくらの生活の中へ置きかえることでかり、従ってわれわれの記憶内容を豊かにすることである。だからこそ、発掘は創造と一致するのだ。

発語者の情熱、世界を感じとろうとする情熱は、言葉の体臭のごときものとなってにじみ出るのだ。

そうなんよ!言葉って体臭があるのよ!!と思いながら読む。

ブレイクにせよランボーにせよ、彼らが見者であったのは、彼らが物質的に物や観念を感じたり、表現しえたからにほかならぬ。見者であるということは、不可視とされているものを不可視のままにしておかないということだ。つまり、神秘家であることを極度に排撃するということだ。このとき彼らが文字の中に定着したものに、人が神秘を感じとろうと、それはすでに他の問題である。人は彼らのこうした能力そのものに神秘を感じるにすぎぬ。

詩人の模索は、つまる所、自分の感じとったある衝動を最も完全に現実化することのできる形を模索することにほかならないだろう。これは極めて物質的な問題であると同時に、極めて形而上学的な問題でもある。

かっこいいところを抜き出すと、全文になってしまいそうだ。ほぼ全てのページの端を折った。この章は折に触れて読み返したい。

詩は人類最大の錯覚か?!

最後の章では、音楽と建築の話を引き合いに出しながら、詩について語られる。

詩は言葉の隠れた部分を衝撃して明るみに出すことによって人間の隠れた部分を衝撃する。

どこかで、誰かが言っていた、「詩は言葉を洗う」という言葉をずっと思い出しながらこの本を読んでいた。詩は言葉を洗う、ということの詳細をこの章は綴ってくれているような気がする。

この章は、一つ前の駆け抜けるようなかっこよさとはすこし変わって、一歩ずつ歩くように言葉が続く。ぐるりとまわって、最初の章に書かれていたことに戻ってきているような感覚になる。

人が見てから驚くものよりも、驚いてから見るものの方が美しい。そこには眩暈があるからだ。
それ故、海と空を描くより、海と空との交叉する水平線を描くことを志す。水平線は動揺する。それは海のものでもなく空のものでもない。詩は海と空とを交わらせることによって、そこに虚構の実在、水平線を作り出す。

この章の締めもかっこいい。きゃーーかっこいいーーー!と手を振りたくなるほどに。まじで生きていたら握手しにいきたいくらいに。長いから書き出さない。

ひとつ前の章とともに、きっとこの文章も今後は何度も読み返すだろうとおもう。

***

あとがきを読むと、これらを書いたのは大岡信が20歳半ばのころらしい。彼は年を経てどんな詩を、文章を書いたのか、俄然興味が湧いた。

この本を買ったのは、詩を書くこと、詩を読むことの不思議さを解き明かしたかったからであり、すこしだけわかった部分とそれ以上にわからなくなったところが増えたような、そんな気分でいる。

***

自分のメモ読みながら、本を読むということは、そこに書かれている文章を理解しながら、自分の過去の記憶やこれまで読んできた文章を想起し、あるいは未来を予感し、また再び文章の中に戻り、おおおっと思ったり、わかんねーと思ったり、おんなじことおもってた!と、握手したくなったり、そんな心の動きの多い行為のだということを再確認した。

読んでいる最中も、読み終わってからも、照り返される日常がある。お昼ごはんを食べているときも、ももちゃんと話をしているときも、娘を寝かしつけている今も、毎日をよく見えるようになるための、わたしにとっての大事なものの、ひとつだったのだなぁとしみじみとおもう。その意味で、旅に似ている。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?