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『ニューギニア水平垂直航海記』 峠恵子

大学三年生の時、友人に誘われて渋谷のライブハウスで歌っていたところ、レコード会社にスカウトされた。それがきっかけで大手芸能プロダクションに所属が決まり、シンガーソングライターとしてデビュー。家族、友人、恋人にも恵まれて何不自由もない順風満帆な人生だった。

彼女は恐怖を覚える。一一私は苦労を知らない。それが私という人間の最大の弱点だ。

ある日、書店でニューギニア隊員募集の記事を読む。ヨットで太平洋を渡り、ニューギニア島にあるオセアニア最高峰をロッククライミングするというもの。
居ても立ってもいられなくなり、すぐに電話をかける。33歳の時だった。

ひどい船酔い、排泄の悩み、ノミやダニの狂わんばかりのかゆみ、極寒のビバーク、隊長の耐えざる叱責、仲間の離脱、ゴキブリの大群の中で寝袋をかぶって寝たこともあった。

しかし、そんな一年余りの苦難も帰路のヨットで日本に近づくにつれ思う。

「このまま都会に戻り、あの必要以上に便利な生活に慣れてしまえば、自分が本来持っている底力、腕力、体力、忍耐力も使えじまいになり、五感と向き合うことも、また空や雲や風や星などと当たり前に対話することも全部忘れ去ってしまうのか」

そんなの嫌だ。隊長に、このままどこかに行っちゃおうよ、と言おうとすると今まで叱責ばかりの隊長が思いがけないことを言う。

「恵子、お前はよくやった。こうして生きて帰ってこられたのもお前がいたからだ。ありがとうな」

彼女は思いがけない言葉に溢れる涙を抑えることができなかった。そして決意する。これからの新しい人生、私の居場所、それは歌に生きることだ、と。

YouTubeで彼女の歌を聴くことができる。
カーペンターズの「I need to be in love」をカレンの兄、リチャードの前で歌う歌番組を観た。
何という透き通った声なのだろう。目をつぶって聴けば、カレンが歌っていると信じてしまう。
歌い終わった彼女は感激で泣き出してしまう。リチャードは言う。

「ここにカレンがいないということは本当に罪なことです」

そう、カレンが彼女の歌を聴いたら本当に感激したに違いない。

本書のエピローグに彼女はこう書いている。

長い旅は終わった。けれども人生の旅に終わりはない。あの旅は人生のほんの一瞬でしかなかった。

「あの冒険を経て、時々空を見上げて思う。『もし、あの時、本屋で立ち読みしなかったら…』。
チャンスなんて日々の生活の手の届くところにあるのかもしれない」

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