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父とファミリーヒストリー

2023年10月29日、教会での聖餐会のお話しです。

皆さん、おはようございます。長野兄弟です。今日のテーマは神殿ですが、神殿と家族歴史は不可分ですので、今日のお話は神殿でもあり、家族歴史でもあります。
以前平野ワードがありました。この阿倍野ワードと教会を共有していて、平野ワードには姉妹の妹が集っていました。彼女は阿倍野ワードの西兄弟と結婚したので、私は西兄弟の義理の兄になりました。ご存じの方もおられると思いますが、彼は頭脳明晰、誠実、努力家、信仰に篤く、しかもイケメンという男なので私は彼と会うたびに「愚兄賢弟」という言葉思い出します。愚かな兄に賢い弟、です。

去年のことです。西家には四人の子どもがいますが、西夫妻と長男と長女と私の五人で神殿に参入しました。目的の一つは長男、穂高君といいます。彼に父の身代わりのバプテスマを施してもらうことでした。
当日東京神殿で私は青少年のバプテスマを見ていました。するとある兄弟から「儀式を手伝ってくれませんか」と声をかけられました。
バプテスマが終わった青少年にその兄弟と按手して確認の儀式をします。10人の青少年を確認させていただきました。11人目に父の身代わりのバプテスマを終えた穂高君が部屋に入ってきました。二人で彼の頭に手を置き、確認の文言を言います。その文言はパウチされて目の前にあります。私はそれを見ると、まずいな、やばいなあと思いました。

私は鳥取県で生まれました。日本一人口の少ない県で市は四つしかありません。その一つの米子市で生まれました。米子は何年か前に町村合併で14万人ほどの地方都市ですが、結構著名人も輩出していて、たとえばヒゲダン、Official髭ダンディズムの藤原聡、K-1チャンピオンの武尊、直木賞作家の桜庭一樹さんとかがいます。テレビで鳥取が映ると思わず「ほら、鳥取!」と指さしますが、姉妹や娘からは「それがどうした、これだから田舎もんは」と言われますが。

父は商店街で「長野紙店」という店をやっていました。昭和初期創業で襖紙や障子紙などを売っていましたが、養子に入った父の代で文房具や父の趣味であるプラモデルを仕入れて、後年はほぼ模型店になっていました。
父は非常に厳しく、手が出ることもしばしばでした。そんな父を嫌い、小学校高学年になると父と口を利かなくなりました。顔を合わせても挨拶もしないという感じでした。この家から早く出たいとずっと思っていました。地元の高校を卒業して大阪に行っても何年も帰省しませんでした。用事があって米子に帰っても生家に立ち寄らず大阪に帰ったこともあります。

私が四十代のときでした。ある人から父が広島で被爆したという話を聞きました。もちろん父からそんな話を聞いたこともなかったし、被爆手帳も見たことがなかったので、どういうことだろうと思い、これはちゃんと聞いておかないといけないということで意を決して帰省しました。
その時に初めて父と真剣に向き合ったのです。

昭和20年、祖父は衛生兵をしていて広島連隊に徴集されていました。3月に沖縄戦が始まり、6月に沖縄は陥落しました。それを知った祖母は日本の敗戦を確信し、どうせ死ぬのなら家族一緒に死にたい、と広島移住を決意しました。祖母と父、父の弟二人で爆心地から1キロの場所に家を借りました。
8月6日の朝、生後半年の弟を膝にのせてあやしている時に爆風で弟が吹き飛ばされ、同時に周辺の家屋が倒壊してきて生き埋めになりました。何とかして抜け出すと、父は両親を探すために市内を二昼夜歩き回ったそうです。父は10歳でした。民家の牛小屋で寝たりしたそうです。奇跡的に祖父母に会うことはできましたが、弟二人は亡くなっていました。それを聞いた私はこのことを記録に残さないといけないと強く感じました。

少しして両親が高齢ということで横浜に住む妹がアパートを借りて住まわせることになりました。同時に店を廃業することになり、閉店セールのために帰省しました。事前にSNSで告知していたこともあり、朝シャッターを開けると多くのお客さんが並んでいました。小中高生だった常連さんたちも五十代から六十代になっています。お客さんは口々に言います。
「最初はとっつきにくく怖かったけど、プラモデルのことを聞いたら親切に教えてくれた」
「おじさんがいなかったら山陰のプラモデル愛好家はバラバラになっていた」
「店の奥でみんなでボードゲームをやっていた。高校生から社会人まで一緒になって楽しんでいた。県外の大学から帰省して店に行って仲間たちと会うのが楽しみだった。人数が増えて父が新しいテーブルを買ったのでみんなでお金を出し合ったのに決して受け取らなかった」
ある常連さんはスーツとネクタイ姿で「おじさんがいなくなるのが寂しい」と目を真っ赤にして挨拶に来ました。
私は父のことを何も知りませんでした。
父が横浜に引っ越ししてから私は毎週電話をして色々なことを聞きました。一年近く続いたと思います。それはまるで今までの父との空白を埋めるような時間でした。

神殿の話に戻ります。確認の儀式の言葉を読んでいると様々な想いが去来してきました。10歳の父が地獄のような広島で祖父母を探すために歩き回ったこと。そして晩年の父は多発性ガンになり、看護士である妹がアパートで看護をしていました。ある日妹からメールが来ました。
「苦しんでいるのでモルヒネの座薬を入れる。入れると呼吸抑制になり、呼吸が止まってしまう。その間手を握っておく。それでいいよね」
私は逡巡しながら「それでいいよ」と返信するしかありませんでした。
その二日後に父が亡くなったという電話がありました。その時のことはよく覚えています。日曜日の朝でした。その日は娘の10歳の誕生日でした。それを言うと妹は「自分が亡くなった日を孫に覚えてもらうためにこの日に死んだんだ」と言って泣きました。

父は本が好きでした。長野紙店の隣には二階建ての広くてりっぱな書店があって、よく行っていました。前述の桜庭一樹さんは中高生の時、うちで原稿用紙を買って、その書店で本を買ったり漫画を立ち読みしていたそうです。
私も本が好きなのですが、ある日わたしはふと忘れていたことを思い出しました。私が小学生低学年の時に父が二十巻ほどある世界少年少女文学全集を買ってくれました。古今東西の名作が入っていました。その本が面白くて何度も読み返しました。それが私の読書好きの原点だと気づきました。父が生きているうちにお礼を言わないと一生後悔すると思い、電話しました。
「一冊の本は旅するよりもその人を遠くに連れていってくれる」という言葉でありがとうと言い、感謝を伝えました。それが最初で最後に父に言った感謝の言葉でした。
私は愚かな兄ですが、愚かな息子でもありました。

父は一言、「おお、そうか」と言いましたが、今まで聞いたことのないような嬉しそうな「そうか」でした。しかしその後に言おうと考えていた言葉が恥ずかしくてどうしても言えませんでした。
それは「あなたの息子でよかった。あなたを誇りに思う」という言葉でした。

そんなことを思って確認の文章を読んでいると最後の言葉が目に入りました。青少年に何度も言った言葉です。それは「あなたを末日聖徒イエス・キリスト教会の会員に確認し」という言葉です。
堰を切ったように涙が出てきました。父は生前福音を聞いたとしても父の性格から絶対に受け入れなかったでしょう。しかしその時私には父は霊界で必ず福音を受け入れるという強い確信がありました。そう思うと涙がとまらなくなりました。
私は嗚咽しながらやっとの思いで言葉を言い、アーメンと言って11人目の最後の確認を終えました。

父の被爆をきっかけにして書き始めた家族歴史ですが、これでやっと完成だと思っていたら新しい事実が出てきてまた書き始めます。もう20万字を超えてしまいました。
ある時は法事に出席した際に「家族歴史を調べています。教えてください」と言って何十年も絶えていた親戚との交流が復活しました。また新しい出会いもありました。

家族歴史を調べる以前とその以後では先祖に対する気持ちが全く違っていることに気がつきました。
私はエンダウメントの部屋に入り、儀式を待つ間、胸ポケットから家族カードを出してその先祖に思いを馳せます。
「夏は暑さにあえぎ、冬は寒さに震え、ひもじいときもあっただろう。どんな楽しみがあったのだろうか」

私がいつか霊界に行ったときに父に言えなかった言葉を言おうと思います。そしてもっともっとできなかった話をしたいと思います。

このお話をすべて主イエス・キリストの御名を通してお話ししました。アーメン

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