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「源氏物語」で朝廷に食い込んだ紫式部 ~平安時代のシングルマザー、必死の就活大作戦~
※この記事は、殿村独自のPR視点で勝手に読み解いた"歴史深堀りコラム"で
す。かつて、マスコミの連載等で「ちょっと大胆すぎて掲載できない」と
言われた独自解釈なので「こんな考え方もある」といった大らかな気持ち
で読んでください。
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日本屈指の名作「源氏物語」。平安時代の女流作家・紫式部による日本最古の大恋愛小説で約100万文字、全54帖にわたって切ない恋愛物語が描かれています。
ただ、読んでみると、刺激的な内容に驚いてしまいます。
第一帖「桐壺」のあらすじを簡単にご紹介しましょう。
身分の低い更衣という女性が桐壺帝(天皇)に愛され、イケメンの光源氏を生む。しかし更衣は宮廷で虐められ、源氏が3歳のときに死んでしまう。桐壺帝は悲しんで、更衣によく似た藤壺を後宮(後妻)に迎える。光源氏は藤壺に亡き母の面影を重ね、愛するようになる。
もちろん「源氏物語」が文学的に優れた作品であることに違いありません。
ただ、PRの視点で読むと、情緒豊かな文章で、当時の女性としてはかなり大胆なラブストーリーを紡いだ背景には、何か深い事情があるように見えて仕方ありません。
そこで、紫式部が「源氏物語」を書き始めるまでのプロセスを調べてみました。
すると父親の出世が遅れたことで婚期を逃し、ついには再婚もできないシングルマザーになったという、当時としては大変厳しい紫式部の"女の人生"が浮かび上がってきたのです。
◆父の影響で婚期を逃した紫式部
今昔物語に「藤原為時、詩を作りて越前守に任ぜらるる」という話があります。
藤原為時は紫式部の父。文才に長けた人で花山天皇の治世では文部科学省のような部署で活躍していましたが、一条天皇の代になると辞任し10年間も官職に就けず貧乏暮らしを強いられました。
しかし人事異動を機に一念発起し、一条天皇に自己PRする漢詩を送ったところ、一足飛びに越前守に任じられたのです。
背景には、越前に唐から来た商人がいて困っていたところに漢詩の得意な為時が現れたというリアルな事情があったようですが、とにかく為時は出世を果たしました。
一方、紫式部は父が10年間も官職に就けなかったことで婚期を逃してしまいました。しかし父が越前守に出世したため、20代後半になって親子ほど歳の離れた山城守・藤原宣孝と結婚し、一女に恵まれました。
ところが、宣孝とはたった3年で死別しています。そして「源氏物語」は、この悲しみから逃れるために書き始めたと云われているのです。
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◆シングルマザーは、まず子供を養うことを考えるはず。
ただ、PRの視点では、そのようには思えません。
一念発起して挑戦的な作品を仕掛ける、というのは、ものごと(人生)を大逆転させたいときに用いられる手法だからです。
当時の女性の立場を思えば、なおさらです。
また、女性の視点からみても歴史の定説と"真実"は違っているように感じられてなりません。
平安時代の20代後半といえば、今なら40歳前半あたりでしょうか。
アラフォーの女性がようやく結婚して、なんとか子供を生んだら、たった3年で頼りの夫が死んでしまったのです。子どもはまだ2歳のはずです。
そんな幼子を抱えて、再婚も望めない状況だったとすれば、まず何を考えるでしょうか。おそらく子供と一緒に生きていく手段を考えるはずです。
少なくとも、悲しみに暮れて小説を書いている場合ではありません。
もちろん実家に戻って子育てに専念する、という選択肢はあったでしょう。しかし当時、父親の藤原為時は、紫式部の兄弟である藤原惟規とともに越前に赴任しています。
同じ女性として考えると、当時の環境で2歳の幼子を連れて寒い越前へ行くことなど、とても考えられません。
現代のように暖房設備が整いアクセスも至便であれば話は別ですが、平安時代は歩くしか手段がないからです。
しかも越前の寒さは幼子の命に関わります。そんな危うい旅を子供に強いるなど、母親としてできるはずもありません。
◆朝廷を舞台にドロドロの不倫を描いたワケ
シングルマザーの女性が実家に戻れないとすれば、次に考えるのが子育てと両立できる職場で働くことでしょう。
その理想の職場が目の前にあったら、どうするでしょうか。
私なら就職するために、あらゆる手を尽くすと思います。
実際に、紫式部の目の前には「朝廷」という理想の職場がありました。
だから紫式部が幼子のために必死の就活を試みた、その武器が「源氏物語」だったと考えれば、すべての辻褄が合います。
つまり、朝廷を舞台にドロドロの不倫を描いて、朝廷の女官たちが「この話、あの人のことじゃない?」といったウワサに夢中なるよう仕掛けたのではないか、と解釈できるのです。
事実、右大臣の藤原道長が「源氏物語」のウワサを聞いて、自身の浮気話を封じるために(定説では文才を認めたから、と言われていますが)紫式部を中宮(天皇の妻)彰子の女房に取り立てたという説もあります。
中宮の女房といえば、当時の女性としては最高の職といっても過言ではありません。
これが事実だとすれば、紫式部の就活PRは見事に成功したことになります。
さらに紫式部は独身時代、藤原道長と不倫関係にあったというエピソードもあり、これが真実であれば、道長にとって「源氏物語」は不倫相手から突き付けられた脅迫状のようなもの。
徹底的に封印しなければ!と焦ったかもしれません。
そうであれば、紫式部に対して、「源氏物語」の執筆を支援するしかないでしょう。自分が支援している限り、紫式部が道長の実話を書くことはない、と周囲は思ってくれるからです。
その結果、「源氏物語」は世界でも珍しい大長編小説になったと考えれば、すべて納得できます。
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◆不倫のカミングアウトほど怖いものはない。
ちなみに藤原道長といえば「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世は自分(道長)のためにあるようなものだ。望月(満月)のように何も足りないものはない)という有名な歌を詠んだ大権力者です。
その生涯は「栄花物語」に描かれたほど権威に満ちたものでした。
しかし、いつの時代も、不倫の噂は人々の信頼を失墜させるものです。
たとえば現代でも、ハリウッド女優が権威あるプロデューサーのセクハラをカミングアウトしたことで、そのプロデューサーは社会的な破滅に追い込まれたことがありました。
また、同じような目に遭った女性たちが「#MeToo」とネット上で声を上げ始めたことで、権威を得たはずの男性たちが次々と社会的に追い込まれました。
紫式部が書き始めた「源氏物語」は藤原道長にとって、ハリウッド女優のカミングアウトと同じような脅威だったのかもしれません。
◆PR視点で見る、ここが歴史の分岐点
それではもし、紫式部がシングルマザーになっていなければ、歴史はどう変わっていたか想像してみましょう。
まず、おそらく「源氏物語」は生まれなかったでしょう。
紫式部は夫のもとで子育てに専念し、出産適齢期を過ぎる前にできるだけ多くの子供を作ろうとしていたかもしれません。小説を書くことよりも、幸せな家庭を築くことを優先したのではないでしょうか。
PRの視点では、歴史に残る名作には、時代の価値観を飛び超えた要素が見えます。そうでなければ、社会に注目されないからです。
そのうち、時代の価値観は過去のものとなり、注目された作品は歴史に残る名作となって、後の世に語り継がれていくのです。
再婚もできず、実家にも帰れないシングルマザーに追い込まれた紫式部は、かつての愛人を脅してでも職を得ようと、最高権威である朝廷を舞台に「源氏物語」を綴ることができたのではないでしょうか。
いつの時代も不倫はタブーであり、母は何より強いのです。
◆参考資料
「源氏物語」(瀬戸内寂聴/講談社文庫)
「紫式部は鷹司殿倫子の女房であったか」
(徳満澄雄/「語文研究」第62号)
「紫式部とその時代」(角田文衛著/角川書店)
「蘆山寺」パンフレット ほか
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