究極のライフハック

老後どころか一年先半年先も見えない生活を送っている人生詰みかけ芸人なのだが、基本的には毎日をそれなりに楽しく暮らしている。

もちろんはじめからこんな気楽な心持ちだったわけではない。

性格的には心配性であるし、安定を好む性質である。
しかし将来を憂うということは大変なストレスになる。

そもそもストレスがかかりすぎて心身を患ったことが今の主治医にかかるきっかけだったので、「いかに悩まず、気に病まず生活するか」ということは大きな課題であった。

そして何がきっかけだったかは覚えていないが──おそらくだいぶ疲れていたのだろう──、ある日ふと、「どうしようもならなくなったら死ねばいいか」と思ったのである。
そしてその日から、実際少なからず気が楽になったのだ。

これだけを見ると自殺志願者のようだが、念のために断っておくと自殺願望は一切ない。

ただし、同時に生きたいという願望もこれといってないのである。

つらい思い、苦しい思いをしてまで生きることに意義を見出だせないし、生きなければならないと思うと鬱々としてしまう。

突き詰めてしまうと、今かろうじて人間らしい生活をしているのは、猫一匹の面倒を見なければならないという使命感ゆえに他ならない。

人見知りが激しく、内弁慶で、知らない場所では餌も水も口にしないしトイレもしない。自宅にいても下部尿路疾患の療法食以外を与えるとすぐに医者にかからなければならなくなる上に、最近では心臓病の兆候もあり毎日服薬させている。
こんな面倒くさい猫の引き取り手がそうそうあるわけがないし、あったとしてもそこに馴染めるかどうかもわからない。

とにかくこいつだけは最期まで世話してやらなければならない、という一心だけで生きている。

その猫ももう人間で言えば還暦を過ぎているから、あと何年生きるかわからない。
このままでは、猫が死ぬときが自分の死ぬときだなと思いながら、運が良ければそれまでに別の何か、生きる理由になりえる何かができるだろうと思って過ごしている。

生きていれば楽しいことがあるということは重々承知している。
しかし楽しいだけのことに、「生きる」という労力を払うだけの価値が見出だせない。

厳密に言えば、与えられるだけの楽しみなら、何も自分が享受しなくても良いと思ってしまうのだ。

消費型の楽しみには、自分でなければならないという理由がない。

私の幼い頃、若い頃に比べれば、日本は良い国になったと思う。非常に暮らしやすい国になったし、今後いっそう改善されるだろう展望が見られる。

その暮らしやすさを享受するのは、私よりも若い世代の権利だと思うし、そうでなければならないと思う。

私が教育業に携わる理由もそこにある。
次世代がより幸福で充実した人生を送るための一助になりたいと思うし、同時に私のような思いをどうかしないでほしいと思う。

そしてこんなやりがいのある仕事に関わっていても、そのためだけに生きられる自信はないのだ。

根本的に生命力が弱く、かつ贅沢なのだろう。

他の誰でもない自分でなければならないという実感と、自分はこのために生まれてきたのだと思えるほどの満足感がなければ、とても「生きよう」という気にはならない。

「死にたい」とは微塵も思わないが、生きることにはあまりにも労力がかかりすぎる。

猫がいる間はよほどのことがない限り生活を放棄することはないだろうが、いなくなった後は果たしてどうなるか、自分でもわからない。

世間の人々はよくも多大な苦労や努力をして生きているものだと感心して観察をすると、その人は大抵非常に若いか、そうでなければ家族や恋人、親密な友人がいるのである。

なるほど、私のような境遇の人間は生存できないのが普通なのかもしれない。

人生というものはいつでもどんでん返しの起こるものであるから、運が良ければ私も幸運に恵まれて生き延びるのだろうし、そうでなければ死ぬまでだと、今日も大いに楽観している次第である。

サポートをいただけると生存率が上がるかもしれません。用途については記事でご報告いたします。