「普通」との距離

昨日さっそくツイッターのフォロワーから半生の概略の濃さに驚かれたのだが、自分としては特段驚かれるようなことを書いた覚えはなく、むしろ若干は遠慮をして、さほど深刻でない部分を抜き出したつもりだった。

類は友を呼ぶという言葉に常々頼り切りになるのだが、今も昔も身の上に難の多い友人知人が多い。私ごときの人生などぬるま湯に思える話も度々聞く。

私は家出をしたこともないし、山に捨てられたこともない。
自殺未遂をしたこともなければ、手首を切ったこともない。
(身体的苦痛にからっきし耐性がないので、そうそう自傷行為には及ばないと思う)
暴れて物を壊した記憶もないし、精神科の隔離病棟に入れられたこともない。
犯罪行為に及んだこともなければ、補導された経験もなかった。

だから私はマシな方だ──と考えることが、おそらく「普通」とはズレているのだろう。

「普通」というのはどうやら、家族が家族として機能していて、誰もが当たり前に学校に行き、当たり前に就職なり結婚なりすることのようだと認識しているのだが、私の人生ではそのいずれにも縁がないので、どうしてもリアリティが感じられない。何もかも知識止まりである。

かつて男性不振が著しかったと書いたが、それも、どこそこの夫婦が喧嘩をして、旦那さんが翌日謝って仲直りしたらしいよ、というような、どこにでもありそうな話を聞いて驚く程度には認知が歪んでいた。

私の認識では、男性は妻に対して謝罪する生き物ではなかったし、夫婦は仲直りをするものでもなかった。
だから「えっ男って謝るの!?」という点で驚き、「仲直りするのに喧嘩したの……? なんで……?」という不可解さに悩まされたものだ。

今はさすがにそこまで驚くことはないが、実際に身の周りで「妻に対して素直に謝罪する男性」が存在するわけではないので、あまり実感は伴っていない。
この目で見たことはないが、世の中にはそういう男性も多いらしいと知っただけである。
また、関係の破綻しない夫婦というものも、同様にリアリティを伴っていない。

幸福で平穏な生活をし、愛する人々に囲まれている人の話を聞くのは好きである。
しかしそれは、「恋愛小説を読むのが好き」であるとか「動物番組を観るのが好き」という感覚に近いものがある。

争わず、憎まず、愛情を持てる家族を得てみたいものだと思いながら生きてきたが、未だその気配はない。
経験できないまでも、「普通」や「当たり前」を多少なり理解する方策を見出していきたいものである。

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