恋人募集中です?

長年ぼっち芸人を貫いてきているが、何も好きで一人でいるわけではない。

一人が好きなのではなく、一人でも平気なだけである。

日々モラハラや罵倒を浴びせられる生活に比べたら、一人でいることの何と気楽で平穏なことか。

とはいえ、一人でいることのリスクも不便さも身に沁みている。この世は一人で生きるのには向いていない。

だから常々、家族がほしいと思っている。

猫も大事な家族ではあるのだが、この場合は人間の話である。それも、法的に認められた家族であれば言うことはない。

しかし親兄弟は生まれたときの運次第で、残念ながら私はそれに関しては貧乏くじを引いてしまった。

現行では異性間にしか適用されないのが難点だが、結婚という制度は素晴らしいと思う。赤の他人同士が、当人同士の意志で家族になることができ、なおかつそれが法的にも社会的にも認知されている。

制度としての結婚は私も一度したことがあるのだが、それについては長くなるのでまた別の機会にしたい。

日本でも遠くない未来、同性間の結婚が法制化される気配を感じるが、私個人に関しては、そこまで贅沢を言うつもりはない。

いずれにしても、人生のパートナーと呼べる存在が得られれば、多少は生きる気力も湧くのではないかと思われる。

しかし実状としては、パートナーどころか恋人すら長いこといたためしがない。

出会いがなかったわけではないが、いずれもタイミングが悪かったと言わざるを得ない。

自分がバイセクシャルであることに気付いたのもほんの数年前のことなのだが、以下の記事で書いた通り、過去の男運があまりにも悪すぎて、男性とうまくやっていけるイメージがまったく湧かない。

うまくやっていけるのであれば相手は女性でも男性でも構わないのだが、家庭内における男性のイメージがひたすら女性に忍耐を強いるそれであるのは未だに払拭できていない。
(実際にこの目で見た男性がことごとくそうであったのだから仕方がないとは思う)

男だろうが女だろうが、出会いがなければ何も始まらないのだが、そうした積極的な出会いの場に赴くと、かえって需要の相違を感じてしまう。

恋愛に興味がないとは言わないが、私が求めているのは非日常ではなく、日常を共有できる相手であり、休日に普段着ない服を着て普段行かない場所に行く相手ではない。

恋人がいるというステータスや、SNSで自慢できるような思い出の写真ががほしいのではなく、今日も明日も変わらぬ距離で互いを思い合えるパートナーがほしいのだ。

人生は平坦ではないから、どちらかが病気や怪我をしたり、トラブルに巻き込まれたり、行き詰まることも当然ある。そういうときに、一人でいるよりも二人でいる方が心強く思える相手がほしい。

まかり間違っても、元気で余裕のあるときにだけ楽しい時間を過ごす相手を求めているわけではないのだ。

今日は疲れたからと会う約束をキャンセルするような相手なら、むしろいない方が楽である。疲れたときほどそばにいてほしいと思える相手でなければ、パートナーにはなりえまい。

年齢にもルックスにも経済力にもこれといって注文をつけるつもりはないのだが、細々と注文をつけて「遊び相手」としての恋人を作る方が簡単なのだろうとは思う。

まして相手が男性であれば、「恋人」という肩書を得るのはさぞかし易いだろう。

これはぶっちゃけて自慢なのだが、30を過ぎた頃からやけに若く見られるようになり、最近では実年齢よりも10は若く見られるのが普通になった。
(高校生の頃は逆に、既婚、子持ちと間違えられていたので、極端な逆転現象である)

さらにちょっとした思いつきで髪を伸ばし始めたところ、男性の態度がずいぶん変わった。

若く見えて髪の長い女性というのは、一部の男性の目にはさぞかし好ましく映るのだろう。

しかし残念なことに、見た目だけで寄ってきて押しつけがましい女性像を夢見る男性の相手をするぐらいなら、早く帰って猫を撫で回していた方がよほど有意義だし、そうでなくてもその辺でツイッターでもしていた方が楽しいと思ってしまう。もっと言えば、画像フォルダの推しの写真を眺めていた方がはるかに幸せだ。

私が何を考え、何が好きで、どんなふうに生きたいのか、どんなことに幸せを覚えるのかという事柄に関心のない人間と一緒にいても仕方がないと思う。

同様に、私が相手のそうした部分に関心を持てなければ、うまくいくはずがない。

ほしいのは「恋人」という肩書ではなく、中身である。

都合のいいときだけ会うのではなく、いかなるときでも二人でいる方がお互いにとってプラスになる関係を作りたいのだ。

──と、こういうハードルの高いことを考えているから、相も変わらずぼっち芸人なのかもしれない。

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