唯一の悩みの話

身の上話をするともれなく同情を買える人生を歩んできたが、なにかかにか言っても独り身というのは気楽なもので、最近の悩みごとと言えばたったひとつ、「お金」ぐらいのものである。

ひとつしか悩みがないというのは幸せなような気がするが、そのひとつが致命的なそれに思えてならないし、もう十年近くこのことについて悩んでいる。

十年前はもっと無数の悩みがあった気がするので、それから考えれば進歩したような気もするが、最も解決されるべきものが解決されていないように思えてならない。

これは厳密に言うと、「自力で金が稼げない」という悩みである。

借金はないし、浪費癖もない。微々たるものではあるがいざというときのための蓄えも多少はしてある。
自前の稼ぎがないのに生きていられるのは、未だかじれる親のすねがあるからである。

しかし親がいつまでもいないことは重々承知している。今日明日にも訃報が入るやもしれない。もうそんな歳だ。

働こうにも働けないやむを得ない事情があるのであれば、行政に頼るのもやぶさかではない。
少なくとも飼い猫が生きているうちは、生活を放棄するわけにはいかないと思っている。

しかし私の場合、働けないわけではない。
働けないわけではないが、満足に働くことができない。
非常に中途半端な線上を、ずっと行ったり来たりしているのだ。

本末転倒するようなことを言うが、私はまず金が好きではない。
金のためなら何でもしようというモチベーションがない。
金のためだから仕方ないと割り切ることもできない。

教育業は天職だと思っているが、同時に日本の教育に対して大いに不平不満を持っている。
大学では教職課程を取ったが、その中で教育の制度や現場の状況を知るにつけ、文科省への愛想が尽きていき、最後の最後で教育実習を蹴って教員免許は取らなかった。
(これについては父からなじられたが、今でも後悔はしていない)

教育業界の講師として満足に稼ごうと思えば、難関校指導の集団授業を行うスキルをつけるか、中学受験指導の専任講師ないしは家庭教師になるのが妥当だろうと思う。

しかしそれらの仕事は、私が教育に携わる動機からは逸脱してしまう。

難関レベルの集団授業についていける生徒というのは、その時点ですでに優秀である。平均以上の成績と勉強のためのスキルを持っている。そういう生徒はどこででもやっていけるし、何なら一人でも大抵のことはできる。

中学受験となると、非常に特殊な世界である。中学受験のためだけの勉強、中学受験でしか問われない問題の解き方をひたすら小学生に叩き込む。
そして、多くの場合、それは勉強する当人の意志ではなく、親の希望によるものだ。

プロ講師としては褒められたものではないかもしれないが、私はそもそも勉強する意志のない人間に勉強を無理強いするのは間違いだと思っている。

とりわけ小学生は、子ども時代にしかできない遊びを腹いっぱいやって、よく食べよく寝るべきだ。
そんな時期に当人の意思に反して勉強を無理強いし、ストレスを溜めさせ、睡眠時間を削るような光景は見ていられないものがある。教育という名が付くだけで、何故これが虐待に該当しないのかと思ったこともある。

経験上、若いうちにしか勉強ができないという前提自体間違っていると思う。勉強というものは、生きている限りいつでもできる。
社会構造上、決まった時期にだけ勉強に専念できる環境が用意されているから、その時期を過ぎると勉強だけやっていればいいというわけではなくなるだけで、それは勉強ができないという意味ではない。

むしろ良い仕事をしている大人ほどよく勉強をしているものだし、学校を卒業したら勉強しなくていいなどと言う大人は信用ならない。

私は小学校も中学校も行かなかったし、高校も通信制で勉強らしい勉強はできなかった。
予備校で何とか受験をクリアできるだけの学力を得て、その分大学に入ってから何倍も勉強しなければ周りについていけなかったが、大学というものは学問をするために行くのだから、それ自体は悪いことではなかったと思う。

その後20代後半になって難関国立大の受験勉強というものをやり直したが、その時この国は小中高生には過保護なほどに勉強をさせるサービスがある一方で、成人が学ぶことに関してはあまりにも放置が過ぎるのではないかと感じた。

教材と指導者があり余るほどにありながら、学校というレールに乗っていない者への教育サービスはあまりにも乏しい。

今の日本で、学校は必ずしも勉強をするための必須アイテムではないし、決まった年齢で決まった内容を学ばなければならない合理的な理由も存在しないはずだ。

ただ、レールから外れると将来が失われるかのような強迫観念が世に浸透しているだけである。

だから私は本心を言うと、年齢に関係なく勉強したい者に勉強するためのノウハウを教える仕事がしたい。
しかし本当にそれを仕事にするには、自ら市場の新規開拓を行わなければならないので、現状では個別指導塾や通信制高校の生徒指導をするにとどまっている。

だが中学受験や医学部受験専門でもなければ、個別指導というのは大した稼ぎにはならない。
個別指導塾で生活できるほど稼ごうと思えば、講師ではなく運営に回らなければならない。それではますますやりたい仕事から遠ざかってしまうし、何より体がもつわけがないのだ。

繰り返しになるが、私は3年ほど前に肺炎を患って入院した。(以下参照記事)

医者は「疲労の蓄積」が原因だろうと口をそろえたが、当時私は非常勤講師と家庭教師業合わせて週に30時間も働いていなかった。

回復してからは、自分の健康を損なわない生活スタイルを模索したが、睡眠時間は最低でも7時間必要だった。
それも、一週間続けて7時間睡眠では足りなかった。疲れたときや季節の変わり目、体に不調があるときは最低ラインが8時間ないしは8時間以上になった。

食事に関しては、朝または晩の食事を抜くと覿面に体調を崩した。

さらに一人暮らしで、物資を送ってくれるような身内もいないので、買い物も雑用も家事も何もかも自分でしなければならない。

非常勤講師は時給制であるから、働く時間と収入は比例する。
どう考えても、健康を維持しながら生活に足る収入を得るためには時間が足りなかった。

では教育業にこだわらず、より高収入な仕事に就けばいいのではないか。

もちろん私もそう考えた。

だが具体的に何をするかという話になると、簡単な仕事などそうそうない。
人間やる気があれば大概のことはできるものだが、まず仕事以前の問題として、私には「生きる気力」が圧倒的に不足していた。

正直なところ、私は健康を維持することだけで、その少ない気力のほとんどを使っていた。
その上で教育業が多少なりともできていたのは、生徒に教えるという仕事が好きだったからである。

実際体に何かしら不調があっても、どこかしらが痛くても、生徒の顔を見ると不調も吹き飛んだし、授業そのものが苦になることはまずなかった。

ストレスになりえるのは、上司からの圧力や同僚との人間関係、保護者からの無理な注文等々で、生徒本人が問題になることはあまりなかった。

好きでもない仕事をして、生きていられる自信はない。
すでに今現在、飼い猫のためだけにかろうじて生きている始末なのである。

教育以外で好きでできることと言えば、話すことと、文章を書くことぐらいしか思いつかない。
いずれも仕事にならないではないが、自ら売り込んで運が良ければ儲けになる程度のものだという知識しかなかった。

そして最大の難点は、働く気力よりもはるかに低次元の、生きる気力がないというところに帰結するのである。

生きる気がない人間がはたして何をどうすれば自力で生きていけるのか。
もはや哲学ないしは禅問答のようであるが、それが私の抱える唯一の悩みごとである。

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