やりたいこと其の一

やりたいことは口に出した方が良いと言う。

スピリチュアルな話でもよく言われることだが、どちらかと言えば、同志や協力者が見つかりやすいという理屈がわかりやすい。

常々生きる気力がないと言ってはいるが、やりたいことはたくさんある。
やりたいことしかやりたくない程度に気力がないのである。
我慢をしてまで生きている動機がないのだ。

食事をするのも面倒だし風呂に入るのも着替えるのも出かけるのも面倒だ。
生きているだけで労力がかかるのに、その上痛いだの苦しいだのつらいだのが足されたら、耐える理由があるはずもない。

ある程度までは「でも猫に餌やって水やってトイレ掃除してやらなきゃいかんしな」で誤魔化せるが、耐えることと猫の世話が直結しなければ無意味である。

ともあれ、生きるのは面倒だが、やりたいことはたくさんある。

まず、適切な教育を受ける機会を逸した若者や、学び直しをしたい社会人への対面指導がしたい。
この国には、本人が必要とするタイミングで必要なレベルの教育を受けるサービスが少なすぎる。

18歳が中1の英語から勉強を始めて進学や留学を目指しても誰が困るわけでもないだろうに、何故か「18でI have a pen.もわからない奴が勉強をしても無駄だ」と、わざわざ人の選択にケチをつけにくる人間がいる。
日本人が全員一定の年齢で学校に通って授業を受けてきたと思い込んでいるとしたら、それこそ無知もいいところだ。

学校に行けないことと勉強ができないことをイコールにして考えるのも、短絡的すぎて話にならない。

発達障害や学習障害が勉強の妨げになるとしたら、適切な治療を受けるよう勧めるのも指導者の重要な役割だし、それらがなければ勉強はいくつから始めても問題ないと思っている。
むしろ、本人が必要性を認識したときに取り組んだ方が効果が上がりやすいに決まっている。

学習者の年齢を問わず受け入れる教育サービス自体はいくらでもあるが、受け入れているだけで「あの子は不登校だったから」とか「通信制高校出身だから」とか、何だかんだと言って当人が必要とする指導を満足に行わないことは珍しくない。
優秀な講師はあてがわず、体裁だけ指導したことにして、成果が出なくても「不登校(通信制)の子だったから仕方ない」ということにして終わらせてしまう。

ほとんど詐欺の手口だが、よくあることだ。

また、未成年への指導でよくあることだが、本人は一切勉強する意志はないのに、親御さんだけが教育に燃えているケースもつらい。
本人の意向が尊重されないで、何が教育かと思うのだが、世間の風潮はそうではない。
本気で大人が一から十まで決めてやることが子どもにとって良いことなのだと信じている者すらいる。

何が正解かはともかくとしても、私は学習者本人が望む目標を達成するための指導を行いたい。それも、年齢やライフステージを問わずにである。

これがやりたいことのひとつ目なのだが、このひとつを実現しようとするだけでも相当の覚悟と労力がいるのではないかと思えてしまう。

ふたつ目みっつ目については、また後日記したい。

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