月一ぐらいで「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいる

14歳ぐらいの頃、施設にぶち込まれたことがある。虐待された子どもが保護されるような場所だ。

なかなかひどいところ(歪曲表現)だったのだが、俺が1番嫌だったのが小説が読めないことだった。
というのも、その施設は18歳以下の子供しかいないので、娯楽室(みたいな名前だった気がするが定かではない)には漫画とファミコン(当時はすでにPS4が出ていた時代である)しかなかった。

俺は職員(ロリコンが多かった)に頼み込んで、ボロボロの小説を貸してもらった。
レパートリーがあまりにも少なくて、俺は同じ本を繰り返し読むことになった。その一つが「ライ麦畑でつかまえて」である。

内容としては、主人公のホールデン・コールフィールドが高校を中退になってから街をふらふらするだけの小説なのだが、当時の俺には刺さりまくった。
なぜ刺さったのか、当時の俺には言語化できなかったが10年前後たったいまなら言語化できる。

誰かに助けて欲しかったのだ。

小説内で、ホールデンが売春婦を呼ぶシーンがある。別にセックスをするわけでもなく、話しかけたりするのだが、なんとなくガキと思われて終わる。そしてポン引きに殴られて泣く。
この行動は彼にとっても読者にとっても意味がわからないと思うが、助けてもらいたかったのだと思う。

妹に将来何になりたいのかと聞かれて「ライ麦畑のキャッチャー」になりたいというタイトル回収シーンがあるが、これは何より自分がキャッチして欲しかったのだ。

以上はありきたりな読書感想文だが、この施設で出会ったボロボロの小説は、出所してからも書い直し、英語版を読んだり、村上春樹版を読んでみたり、と今でもなんだかんだで月一ぐらいは読んでいる。
流石に当時ほどは感情移入はできなくなりつつあって、少し悲しくなる。

ところで、最近色々なことがあって(詳しくは語らない)、俺自身がPTSDと診断されたという、それなりに重大そうな出来事があった。
悪夢で夜は飛び起きるわ、本物のフラッシュバックというものはこういうことなのかあ、と思うわけだ。

そうなって改めて気づいたのが、特に根拠はないが「ライ麦畑でつかまえて」は重度のPTSD患者が書いた本なのではないか、ということだ。

俺がこうなって強く思うのは、この障害は感情の麻痺……というか、主観を客観にしてしまう効果があまりにも強い。この文章を書いていても俺は全くもって平気なのだが、それは書いている自分を俯瞰してみているからだ。
だが気持ち悪いし、吐き気はするわけで、これを完全に切り離すことはできない。つまり客観的に見えるが本当は主観的であり、主観的に気持ち悪さを感じるが客観的には他人事なのだ。矛盾している。実に面白い状況じゃないか?と思う。

こうして俺の日常は、すごく感情移入できるテレビをみているような状態になったわけだが、俺には「ライ麦畑でつかまえて」が同じような感覚で書かれた小説に思えてならない。
「原因」について頑なに書こうとしない気持ちもすごくわかる。

サリンジャーの作品は全て読んだが、おそらく死ぬまでPTSDを克服できなかったんじゃないかな。

作中で妹が回転木馬に乗るシーンがある。あれはまさに救い以外の何物でもない。だが、あのような救いは現実にはない。

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