落語の視点とマインドフルネス

世界のエリートがやっている「マインドフルネス」って聞いたことある?こここ数年、マインドフルネスについて脳科学的な研究が進み、瞑想することで脳の器質的な構造そのものが変化していくことが分かってもきた。けれど、やるとなると、「呼吸へ集中」「雑念は出てきてもそのままでいい」とか、アップルウォッチに入っているアプリでやってみてるけれどいまひとつ、さらにマインドフルネスの手引書を読んでみてもわからない。

モヤモヤしている中でふと気づいたことがある。
落語のなかに「首提灯」というはなしがあって、夜ふけの町はずれで、酔っぱらいの町人が侍に道をたずねられますが、ささいな行き違いから口論となり、かっときた侍は刀を抜くと、町人の首を切ってどこかに行ってしまう。ところが、侍のワザがあまりにも鮮やかだったため、町人は頭と胴が切断されたことに気付かずそのまま歩き出します。そのうちに、顔が勝手に横を向いたり、鼻歌がうまく歌えないのを不審におもった町人が、自分の首に手をやって、切れ目に気付きます。「あのやろう、やりやがった!」町人は「膠でくっつくかな」などと言いながら、頭を両手で押さえて家に帰ろうとします。そこへ火事が起きて、周囲はたいへんな人だかり、急いで帰りたい町人は、自分の首を両手でつかみ提灯に見立てて「はいごめん、はいごめん」と首を差しだしながら歩いていくというのがオチ(火事場では提灯を持った人を先に通すという慣習があった)
「首提灯」の主人公は、辻斬りにあった自分自身を客観視して自分自身を突き放してみている。いわば、自分で自分のことを笑っている。私たちはそのえにもいわれぬユーモアーを感じる。その一方で、落語には客観的な視点を無くしてしまった人々が出てきます。自分自身の置かれた状況を見うしなった人間は、愚かしくて哀れで、滑稽です。そのときは、鏡にうった自画像のようにみなして、自分自身も同じことをしていないか視線を向けずにはいられない。落語はつねに、自分を客観的に見ることを求めます。
それが落語が働きかける「ものの見方」です。

自分自身を他人事のように客観的に見て笑えるか、落語の視点でマインドフルネスにトライしてみよう。

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