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彼女と田中くん


彼女は酔うと、昔のことを話し出す。
田中くんという、高校時代の同級生の話だ。

「彼は彼の心の中に温室を持っていたの。その温室は広くて、そこは温室というよりも、ひとつの世界だったように思う。どこまでも続いてた。そこには植物があって、動物がいた。濃くてみずみずしい緑の葉っぱを持つ木々があって、猫も犬も野うさぎも、鹿も、熊もいた。そこで彼は暮らしていた」

彼女は元々作家志望だったからか、言葉の扱いに慣れている。
口を開けば、まるで流れる水のようにするすると言葉が出ていく。
その口に、今度はジンジャーハイをぐいっと流し込む。
彼女ののどが、んっく、んっくと上下するのを見ている内に、コップの中身は底をつき、彼女はすぐさま左手をあげた。
近づいてきた店員に、4杯目のジンジャーハイを注文する。
ぼくはまだ、1杯目のコークハイを飲んでいる。

「彼はね、周囲より大人に見えた。でも、ときおりものすごくこどもにも見えたよ。10歳ぐらいの子どもに。
“物事の善悪がよくわからない”というような顔をした。よくわからないという顔でひどく残酷なことばを吐いたりもした。
子どもの姿をした化け物だったのかもしれないって思う。善悪がわからないから化け物なんだよね。大勢にとっての悪は、彼にとっての善になりえるから。善悪がわかるうえで悪いことを、残酷なことをしたらさ、それは悪人だよね」

彼女の言葉は時々難しく、ぼくの想像力では及ばないこともあって、
でもそんなところがあるから一緒にいたかった。
決して高くはない居酒屋で、軟骨のから揚げや枝豆を適当につつきながら、彼女の向かい側に座って話を聞くのがすきだった。

「彼にとっての一番の悪は、自分の心に嘘をつくことだったのね。そしてそれは周りの人間にも適応された。根っこがこどもだから、周りと自分が違う人間だってこと、わかってなかったんだと思う。
彼にとって誰かを傷つけること、果てには殺してしまうことは、悪じゃなかった。それが本人の本当の気持ちから引き起こされた行動ならよかった。それが善で、全だから。善良の善と、全部の全ね。
逆に、本当の心の声に耳を貸さない相手は信用に値しない」

彼女の話す田中くんには、統一感があるようにも、ないようにも感じられた。
それは彼女がお酒を飲んでいるからなのか、それとも田中くんの人間性に大きく“気が違った”ところがあるからなのか、ぼくにはわからなかった。

彼女と会うたびに、ぼくの中には会ったことのない田中くんの情報だけが増えていった。
心のなかに温室を持っていて、一見大人びていて、その実こどものようで、こどもだからこその残酷さを持っていて。
なんだ、そんなの。どこにでもいる気がした。多かれ少なかれ誰のなかにもそんな部分はあるはずだ。じぶんにだって当てはまる、どこかでそう思っていた。


彼女が姿勢を崩し始める。眠たくてまっすぐ座っていられないようだ。
ふと、いままで聞いたことがないことを踏み込んで聞いてみた。
「連絡先、知らないの?」
「知らない。もう死んでるから知ってても意味ない」
予想外だった。
「……死んでるんだ」
「うん」
「事故?」
「ううん」
「なに、自殺?」
「ううん」
「え、なに……殺されたの?」
「うーん、微妙。ていうか、わたしが田中くんに出会った頃には、もう死んでたし」
「死んでた?田中くんが?」
「うん」
「え、死んでたのに出会えたの?」
「うん、身体は動いてたから。普通に、日常生活送ってたから」
「……ねぇ、それ夢のはなし?」
「……」
「ねぇ、前田、前田?」
「んー、んー……」

彼女が追加で注文したジンジャーハイが運ばれてくる。
ぼくはもう飲み進められそうにないコークハイをただ見ていた。


会ったことのない田中くんは、会ったこともなければ、もう一生会えない田中くんになってしまった。
本気で会いたいと思っていたわけではないけれど、彼女の記憶に居座り続けるほどの魔力を持った人間が、どんな人間なのか。
ほかの人間と、ぼくと、何がちがうのか。知りたかった。


酔いつぶれた彼女を抱えながら、タクシーを捕まえようと手をあげる。
なかなか止まってくれない。
右半身が重い。
ぼくたちの目の前を、素知らぬ顔で通り過ぎる車たちが憎らしい。
右側からなにか、ぼそぼそと声が聞こえてきた。
「え?なに、聞こえない」
「……わたしも」
「うん?」
「わたしも嘘つきだったから、中途半端だったから、だからだめだったのかなぁ」
「……そんなことないよ」

彼女の黒目がゆらゆらと波みたいに揺れていて、それはぼくの知らない揺らぎ方で、なんだかすこし怖かった。
ぼくはそれを見なかったふりして、必死に左手をあげた。
もしぼくが田中くんだったら「そんなことないよ」なんて絶対に口にしなかっただろうと気づいて、泣きたくなった。


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