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ある朝の覚え書き


一昨日、わたしは感情がいろいろ終わっていて、人間なんてじぶんの感情でさえ軽薄で残酷なのに、他者のことなんてとても信じられないと、変わらないものなんてこの世にないんじゃないかと、散々泣いた。
そして昨日は記憶がまったくなく、今朝は煙草を買いに外へ出た。

いったいなんなんだ。
生きるためなのか、ゆるやかに死に向かっていくためなのか、わからない。
わからなくて混乱する。
薬を飲む。
こんなものがなくても、生きていける人たちがうらやましいなと思う。

煙草と一緒に栄養ドリンクを数本買ってきた。
これを飲んで、無理やりにでもからだを健康だと錯覚させないと、まったく動けない気がした。
一本飲んだけど、よくわからなかった。
残りを冷やしておくために冷蔵庫を開けると、ほとんどからだった。
かろうじて生きているなと思った。

変わらないものの話に戻る。
「変わらないものはこの世にあるよ」って言われても、わたしはきっと今ヶ瀬みたいに信じることはできないのだと思う。
たとえ望む相手から言われても、それを信じて変わることなどできない。
それにじぶんが望まない相手からの得体の知れない愛なんてこっちからごめんだ。
私は身勝手だ。
でもそれが私でもある。

私は永遠も約束も、信じたくても信じられない。
そういう風に育ってしまったし、信じるには世界は複雑で、残酷すぎる。
だから、私と向き合ってる今だけは、信じさせることをずっと続けてほしい。
それが振り返ったとき永遠になる、ように思えるから。
でもそれも難しいか。
人間は身勝手だから。
身勝手っていうか、感情や意思があるから。
私も含め。

つくづく、愛するということは、じぶんがじぶんに課す覚悟なんだろうな、と思う。
一時の感情や欲に流されず、目の前のあなたをどんな時も見つめ、どんな状態でもそばにいる、そばにいられなくてもそばにいるように感じさせる、それを言葉と行動で表し続ける覚悟。

でも人間は不完全だから、迷うし、揺らぐし、流されもする。
諦めてしまおうかとも思う。
それでも諦めたくないと思うか、諦められないと思うかは、愛と執着の違いなのかもしれない。

執着は時に望まない重荷を相手に与えてしまうものだろうけど、他者にそこまで執着できるのは、その人と関わったことで、あなたの中の何かが変わったり、満たされたりしたからなんだろうね。
そこでもっともっとと欲しがるのではなく、「じゃあそもそもその人自身はなにを望んでいるんだろう」と考えられたら、それは愛に等しいのかもしれない。
でもそれを相手があなたに望むかは別の話だから難しいね。

まとまらなくなってしまった。
最初からまとめる気などなかったけれど。

私はただ、私の心の形を大事にしたいだけで、正しい重さで言葉を発していたいだけで、それってつまりは、私がこう在りたいって想いなんだけど。
究極、世界や世間は関係なくて、でもやっぱり関係しちゃうんだよね。
私は世間の中で生きているから。
じゃあ森にでも逃げれば、とも思う。
でもそれは最終手段かな。

私はまだ、この世のどこかに変わらないものがあるというのなら、それを知りたいと思っている。
それだけはたしかな事実として、ここにある。


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