長い昼寝のあとで
気温が25度を超えた11月の夏日、とろりとした眠気に襲われた。
定時で退勤し、猫のようにシーツに潜り込む。頰にあたるタオルケットの冷たさと、頬からゆっくりマットレスに沈み込んでいくような感覚。なんだろうこの懐かしさ、と思いながら眠りに落ちた。
深夜、目を覚ますと額にはじんわり汗をかいていて、喉がカラカラだった。氷を入れた水をごくごく飲んでいたら、さっき感じた懐かしさの正体は、
幼い頃の夏の記憶だと気付いた。
小学生の頃、夏になるとよく、ひとりで逗子の海を泳いでいた。泳ぐことよりも、日差しの熱さと水の冷たさを、いっぺんに感じることが好きだった。
海から帰ると、いつも溶けるような眠気がやってきた。タオルケットにくるまり、まだ身体に残るゆらゆらとした波の揺れを感じているうちに、眠りに落ちた。目が覚めたときに飲む冷たい水は、何よりもおいしかった。
それを思い出しながら、私が誰でどんな人間かというのは、こういう感覚の中にしかないのかもしれない、と思った。
ここ数日、30歳の1年を振り返る記事を書こうとしていたのだけれど、どれだけ時間をかけても、しっくりくる言葉が見つからなかった。この数日だけじゃない、もう2年くらい、何を書いても違和感があった。
恋愛のあれこれ、写真付きの日記、色んなものを書いた。でも、それを読み返しても、私と目が合わない感じがするのだ。
稀に目が合うのは雑記のような記事ばかり。それから、iphoneのメモに忘備録みたいに残した「ニットのほつれを見てたらデジャヴを起こした」とか、カネコアヤノの歌詞の一部とか、そういう脈絡のないスタンプみたいな言葉たち。
noteを始める前に書いていた、誰にも存在を教えていなかったブログにある言葉とも、やっぱり目が合う。その時の出来事なんてもう覚えていないのに。
どれだけ出来事を詳細に書いても、そこに私自身はいないように思える。
タオルケットが冷たくて気持ち良いとか、昼寝から起きたときの冷たい水が美味しいとか、そういう記憶の重なりの中に、私は自分だけの言葉を見つけるのかもしれない。
30歳の終わりに、それを思い出せて良かった。
これ以上は、私の言葉を失いたくないと思っていたから。
ここまでを月曜に書き、週末、つまり昨日なのだけど、10年前に書いた詩を読み返す機会があった。
北鎌倉の「テールベルトとカノムパン」のオーナーの美雪さんに久しぶりにお会いしたら、10年前に私が書いた詩を覚えていてくれたのだ。
家に帰り、古いmacからその詩を取り出して読んだ。この数年でいちばん真っ直ぐ、自分と目が合った気がした。
次の10年後は、40歳だ。
どんな生き方だったとしても、私であることから逃げなければ、きっと良い未来にたどり着いているはず。根拠なくそれを信じることのできるくらいの前向きさは備わっている、大丈夫だ。
いつか絶対、私であることを選んで良かったと思える日がくるはずだから、もう違う「誰か」にはなろうとしないでほしい。
そんな気持ちを込めて、今日、詩とも散文とも分からないものを書いた。
どうか、10年後の私とも、目が合いますように。
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