見出し画像

「あなたたち」は知らない

「あなたたち」は、なぜか大雨の日だったり、凍えるような低温の日だったり、熱中症の心配がある暑い日だったりと、多くの人々が外出するのをためらうようなときにやってくる。けっしてひとりではなく、お仲間の方々と一緒。そしてその中には就学前と思われる子供が混じっていることも多い。
なぜか話しかけてくるのは必ず「あなたたち」のなかのひとりだけ。お仲間は、子供も含め、一斉にこちらを見ているだけ。
おばちゃん、そんな集団の重視線にはびくともしないけど(笑)そういう姿勢は、人によっては無言の圧力に感じると思う。

集団のなかのひとりである「あなた」は、各々それぞれ違う団体名を名乗り、あるいは団体名を名乗らない場合も多いけど、展開は毎回ほぼ同じ。
共通のマニュアルみたいなものが存在するの?
ひょっとして、各団体の上に元締めがいて、お互い個々には知らないだけで、結局、いちばん上ではすべての団体が繋がっていて、そこに大元締めがいる?
訪問者の「あなたたち」が見事に同じ態度を見せてくださるので、私はそう思ってしまう。

もしそうならば、大元締めはけっして有能とは言えないけど…(笑)


どの「あなた」も、非常に低姿勢。私と同じ地域に住んでいることを強調しつつ名乗ったた後、まったくためらいのないまなざしで一心に語りかけてくる。だいたいの場合「神」だとか「イエス」だとかの文言が入っているチラシみたいなのをこちらに示しながら、その口調には淀みがない。たまに自分たちは「宗教」とは違い、人間として向上するための集まりだという「あなた」もいるけれど、手法としては全く同じ。

それに対応するときの私…。
毎回「あなた」の息継ぎのタイミングを見計らい、「あなた」の言葉が途切れた瞬間に、一気に、丁重に、そして…けっして「あなた」に劣らないくらい流暢に『断りの言葉』を口にし、最後は「以上なので、申し訳ありませんが、どうかお引き取りください」と伝え、「あなた方御一行様」が立ち去る前に扉を閉める。
私の『断りの言葉』にはそれなりの効果があるらしく、さらに食い下がられたことは過去一度しかないし、今では相手がさらに食い下がろうと口を開く寸前にさっと中へ引っ込んで扉を閉じる術も身につけている。

その行為、親から教わってきた礼儀には欠けることは承知の上。

今まで私の前に現れた「あなたたち」が、こういうことを想像しないのかどうか私の知るところではないのだが…。
少なくとも私は「あなたたち」に対応するたび、それが長引くことはないようにできるものの、その後数時間、ひどい場合は数日間、もやもやした気持ちが消えない。

要らないものはたとえお付き合いでも買わない性格ゆえ、訪問販売であれば、そんな感情はけっして起こらないのだけれど(そういえば、近年は訪問販はほぼなくなった…)、「こころ」に関することを勧められ、それは自分には必要ではないので当然断るのだけれど、どうしても最後の最後は礼儀に欠ける行動をせざるをえない状況になってしまう。これは、インターホン対応でも同じこと。

断る最後の瞬間は、「あなたたち」に対し、もうこれ以上は関わらないという私の強い意思を示さなければならなくなる。
この場合、相手側に立ち去っていただくよりも先に、先方がすぐには反応できないくらいの(相手が簡単には論破できないくらいの)断りの文言を並べたて、即扉を閉めるだとか、インターホンを切るしか、私はいい方法を知らない。
普通の訪問販売ならば「残念ながらお金がないから買えない」のひとこと(ないし、ふたこと、かなり粘られたとしても、みことまでで(笑)ほとんどの場合、お互いに少しばかり笑いながら決着がつくが、「あなたたち」は、目に見えないものを、一見「低姿勢」で押し売りしてくる。
強引な「押し売り」の態度ではないだけに、こちら側が簡単に無礼な態度に出られないことを狙った先方の手法だとはわかっているのだけれど、どうしてもそこが割り切れないというか、心の奥底に残ってしまうというか…。

そもそも「あなたたち」は真剣すぎて、冗談などまったく通じない。

結局、私はとても丁寧な言葉は使うものの、「あなたたち」にこの場から去ってもらうため、自身としては超・高圧的な気持ちにならざるをえない。
そこがもやもやする。
一方的な訪問者とはいえ、できれば笑って、たとえ笑えなくても、お互いが嫌な気分にはならずに帰っていただきたい気持ちが私にはある。


応対に出た私に向けて全力でしゃべる「あなた」だけでなく、子供を含むお仲間たち全員からの無言の圧力。
その訪問が「修行」なのか「ノルマ」なのか、あるいは「修行と言う名のノルマ」なのかは、「あなたたち」の信じるものにまったく興味がない私には、どうでもいいことではあるが…。



言いたいことがひとつ。

「修行」か「ノルマ」か…どちらにしても、その「教え」を広げるため「あなたたち」が強く信じるそれらを誰かに勧めるとき、断る側に発生する複雑で様々な気持ちを「あなたたち」は知らないでしょう?
自分たちが絶対に正しいと思っている(たぶん)から、知ろうともしていないでしょう?

一見「低姿勢」のようであっても、大勢で(ときには小さい子供連れ)での超・高圧的行為は、ときには人のこころに微妙な小さな影を落とすことに気がつかなければ、人のこころに関することを他者に伝播することなどできないと思いますが…。


さらに言うなら…。

いや、もうやめておく…。
人はわかりあえるというのは……「幻想」だ(苦笑)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?