クリスマスケーキ
かなり昔のことになるが、12月24日にケーキを食べられないことが5年続いたことがある。
夫の父が脳疾患で倒れ、私は2年間遠距離介護の日々。
介護の中心は母であったが、次男の嫁という立場の私が月の1週間から10日間ほど母と交代して介護を担うことになった。
入院直後の約1ヶ月と、その後も父の状態が悪いときは母と2人がかりで一日中付き添う必要があり、お互い1ヶ月近くまったく家へ戻れないということもあった。
12月の始め頃に入院した父はその病気とは関係なく、元々耳が不自由だったこともあり、家族の付き添いが必要だった。
完全看護の時代ではあったが、手がかかる病人であるという理由で病院から求められ、病室に寝泊まりして付き添う家族は、うち以外にも何組もいた。
家から近い人は、日中に家へ戻れるけれど、うちの場合は車でも病院から家までは1時間弱、公共交通機関だとJR列車とバス2本を乗り継いで2時間近くもかかる距離だったし、病院の近くには歩いて行ける範囲に銭湯がなく、近くの安宿の一室を借りての生活。
けっして珍しい病気ではないのに、親の住む地域に脳外科診療の病院はひとつもなく、うちが入院していた2年と少しの期間にも同じ地区から何人か顔見知りの住人が同じ病気で入院してきた。
あれから20数年経ったけれど、人口が少ない地域の病院事情は今もそれほど改善されていない。
入院後、父の病状が一定していなくて、カレンダーを把握する余裕もなかったある日、病人の夕食のデザートにショートケーキが出て「あ、今日はクリスマスイブなんだ」と、母とともに初めて気がついた。
病人用のケーキは提供されても、付き添いはケーキどころか、当時病院の近くにはコンビニ等がなく、院内の食堂は2日間は保温してあると思われる黄色くなったごはんと、出汁なしのただのお湯で味噌を溶かしただけのほとんど具の入っていないみそ汁と、くず野菜を使ったとしか思えない炒め物くらいしか提供されない状態。また院内の売店の食べ物(菓子パン等)は、朝のうちにあっというまに売り切れてしまうので、付き添いの家族はみんな、自分の毎日の3食分をどう確保するかにも頭を悩ませていた。
そのクリスマスイブの日も、私も母もまともな物は食べていない。
一年後。
次の年の12月24日は、介護を母と交代し自宅へ戻るため、私は宇和島から高松へ向かっていた。高松・宇和島間の鉄道は予讃線と名がついていても直通列車はなく、途中の松山で乗り換えが必要。
その松山で列車を乗り換えた頃にはすっかり夜の時間。
それまでもその時間に乗車したことはあり、それほど混雑しない時間帯だったはずなのに、その日はやけに乗客、それも若いカップルが多い。
2年目のクリスマスイブだということに、私はそこでようやく気がついた。松山でデートをして、今治か西条あたりまで帰る人々なのだろう。
今の自分は、この人たちのようにクリスマスなんて楽しめないんだな、この状態はいつまで続くのだろう、という思いがほんの少しばかり脳裏をかすめたことは覚えている。
父は、最初の年に出されたクリスマスケーキを食べてから10日後くらいに症状が悪化し、口から食事をとることができなくなってしまい、1年経ったその頃にはたまに病状が悪化する時以外は、もう1日中付き添う必要がなくなり、朝の6時から消灯時刻の9時までだけの付き添いで、母と私の負担は少し減ったが、それは父の回復がもう見込めないということでもあったし、それでも日中の頻繁な声掛けによる父の小さな反応に一喜一憂する日々は、入院時からずっと変わらなかった。
結局、父はそういう生活が3年目に入ってまもなくの12月23日に亡くなり、翌24日が葬儀。
当然、この年もクリスマスどころではなかった。
その翌年と翌々年の12月23日は一周忌・三回忌法要。
今はそれほどでもなくなったが、当時の田舎の葬儀や法要は、県庁所在地で生まれ育った私には信じられないくらい大がかりで、後始末も大変。
23日に法要が終わったら、すぐに自宅へ帰れるということにはならなかった。
結局、5年間クリスマスとは無縁の生活だった。
介護の日々は、まわりからは「すっごく大変そう」と思われたようで、実際に友人・知人からはそういう言葉もたくさんいただいたのだけれど、私自身は「たぶん他人が思っているよりは大変じゃないのだけれどな…」くらいの気持ちの2年間だった。
確かに自分の自由な時間は減ったけれど、寝たっきりの父と少しでも意思疎通ができた瞬間があっただけで、とても嬉しかったし、次はこういうふうに接したら、またにっこり笑ってくれるかも…と考えることも励みになった。
介護よりも大変だったのは、亡くなってからの田舎のいろいろなしきたりの方。決まりごとなどは知らないことばかりだったし、その中には納得しがたいようなしきたりもたくさんあった。
それと、もうひとつ我慢ならなかったのは、私と同じ嫁という立場の人が、その2年間で病院へ来たのはたった2回。しかもヒール靴にきれいな外出着での1時間程度のお見舞い。オムツ替えも汚れ物の洗濯も頼める状態ではなかったこと。私が遠距離で通っていることを知っているのに、彼女は最後まで一度もお父さんの病状すら聞いてこなかった。
そのあまりの無関心さには心穏やかではいられないこともあった。
三回忌が終わった翌年から数年間は、それまでの反動からか、クリスマスケーキといえば、丸いケーキじゃなきゃダメみたいに思ってしまい、小さくても丸いケーキを買い求めていた記憶がある。
さすがに今はそういう執着も消え、今日はクリスマスイブだからチキンを焼いて、やっぱりショートケーキも買っておこうか…程度の感覚。
もう丸いケーキなんて食べきれないし、ショートケーキでじゅうぶん(苦笑)
世の中のみんなと同じように行動しなきゃ…みたいな考え方はずっとしてきていないつもりだったけれど、今あらためて振り返ると、介護が終わり、その後の一連の行事も終えた後、しばらく丸いクリスマスケーキに固執していた私は、相当固定観念に縛られていたし、ある意味被害妄想(苦笑)だったのかも。
世の中みんなクリスマス気分のときに、長い間自分はクリスマスにケーキも食べられなかったという、ただの自己憐憫…(^^ゞ
かわいそうな自分をやっていたら、いつまでも前へ進めないことに気がついた…かどうかは定かではない(笑)けれど、知らないうちにそこから抜け出し、今の自分がいることは確か(^O^)
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