無いもの、不足しているものを外に求めるだけで良いの?ストレス解消、それは何のため?
Facebookの過去の思い出を振り返ってみよう、という機能があって@@年前の今日はこんな投稿してましたよ、と知らせてくれることがある。
ちょうど5年前の今日は、私がちょっとしたきっかけからある個人事業主の女性の見習いみたいな形で、掃除やアパート管理の仕事を一緒にすることになった日だったようだ。すっかり忘れていた。これが後に個人事業主として民泊清掃の仕事を開始する最初だった。人生、どんなところに面白いきっかけやチャンスが転がっているか分からないものだ。この事が今の自分にとって大きな方向転換だったことは間違いない。
話は変わって、
お笑い系のエンタメ番組はほぼ見ないし興味もなく、むしろキライだ、というようなことを以前書いた。
なんで面白いのか分からない。つまりは自分はそういうお笑いについて感じ取れる感性が欠如しているのだと思う。
別にそれで生活するのに不便は感じないし、その状態で60年生きてきている。
自分にとって美術や音楽は毎日の生活に潤いを与えてくれる大切なものだが、「笑い」をわざわざ作られたエンタメに求める気持ちはない。毎日楽しければ別にお笑いエンタメに楽しさや気晴らしを求める必要もないのだ。毎日の生活で無理して我慢して小さな不満を溜めてそれをお笑いエンタメで解消するのかなぁ?そういう構図、なんか変じゃない?
そしてまた以前、「結婚式に命をかける女性がよく分からん」のようなことをこのnoteで書いたことがある。その話、私の長女からすると一般的な考えからはかなりずれているのだそうだ(笑)言われるまで気づかなかった。
私は着物を着るのが若い頃はとても好きだった。今も好きだが現在はほとんど着ない。着物を着るとその場では自分は主役なのだ、と勝手に思っている。考えれば単純でおめでたいヤツなのだ。
毎日が楽しくて充実して、自分のやることに集中していれば、他のことに気晴らしを求める必要もない。変な考え方かもしれないが、結局自分の内面が充実していないと、外にそういった刺激を求めたくなる、のではないかな?
それがダメではない。足りないものを他に求めるのが悪い訳じゃないのよ。不足しているならば何処からか補えば良い。それで事足りるならばそれで良い。だけどただよそに求めるだけだと、一生消費者でしかない。足りないものを一生よそに求め続けるのか。自分で生産できないの?よそに依存するだけで良いのか?
我慢してストレスを溜める。そこでなぜ我慢しなければならない?我慢しなければならない環境にずっと居ていいの?例えば職場がストレスフルならば、そこに居続けるメリットは何なのか、給料のためにそんなストレス満載の職場に居続けることが、どんなに自分にとってマイナスなのか考えよう。ストレスを解消するための刺激を外に求める生活って、健全なのかなぁ?なんか順序が逆な気がするよ。
そういったことを一度立ち止まって考えてみたほうがいい。依存させて消費させる、継続的にお金を払ってくれる人は被依存者にとってありがたい存在だから、持ち上げるしありがたいからお客様扱いだ。嘘っぱちの「お客様扱い」にいい気になってちゃダメだよ。そんなシステムに絡め取られたら一生搾取されるだけだ。一つひとつ自分で考えよう。面倒なんだけどね。
自分は幸か不幸か、発達障害的な気質もあって周囲とは感じたり考えたりの感覚がだいぶズレていた。そのズレは居心地の悪さとなり、自分は常にその居心地の悪さと向き合わざるを得なかった。自分なりの楽しさや居心地の良さを追求して行った結果が今の自分だ。
気の合う人や友達は極端に少ないし、自分でこのnoteを書いて自分を振り返ったり、そして他の方のnoteを読んでいても「私ってやっぱり変かも?!」と思うことが多い(笑)その変な自分とは死ぬまで付き合って行かねばならない。多少なりともそうやって模索を続けて来たから、自分なりのラクなやり方やホッとする時間を今は見つけることが出来た。その模索や紆余曲折は無駄じゃなかった。
今は仕事に関しては通常はストレスフリーでやって行けてるし、自分らしいポジションを見つけられた気がしている。他人が連休の時に忙しく働いて、平日に休みで温泉行きの電車の中で真昼間から車窓風景を肴にお酒を飲んだりしている「ダメな大人」。これが幸せでなくてなんと言いましょうか(笑)収入は決して多くはないけど💦
ストレスを感じる、居心地の悪さを感じるのはなぜなのか。その違和感を突き詰めて考える。どうしてもダメなことならどうすればそのダメを解消できるのか、考えて実行してみる。100%良いじゃないけど60〜70%の良いぐらいには出来ないか。一つひとつの要素が60%程度でも複数の60%を集めたらだいぶ違和感は少なく、気分良く過ごせるのではない?とか自分なりの工夫と模索を重ねる。
考え続けること、模索し続けること。疑問を持つことを面倒くさがってはいけない。ちょっとずつでいい、模索と試行錯誤を続けるのだ。
自分の得意分野の小さな事からでいい。何かを続けてやってみる。継続していけばきっとそれは大きな成果となり、いつか自分を支える大きな自信という巨木となる。……のではないかな、と全く一貫性がなくそれでも何とかここまで生きて来た60歳5ヶ月になったおばさんは思っている。
おっとっと、今日もこれから仕事なのよん。のんびりnoteを書いている場合じゃなかった。さぁて身支度して出かけようか。
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