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昭和46年 アパートから一戸建に引越した 一戸建に向かう道が砂利道だったよ💦

みけ子が生まれたのは昭和36年。昭和30年代半ばってまだ戦後の雰囲気が町のあちこちに残っていたんじゃないかな。今じゃあ考えられないけど、道路は砂利道が普通だったんだよね。

昭和40年代半ばに、新興住宅地にマイホームを建てた両親。田中角栄の日本列島改造論で土地が急激に値上がりする直前の事だった。あの頃は土地値より建物の方が値段が高かったんじゃなかったかな。


当時住んでいた集合住宅から父と自転車で、新しく引っ越す予定の戸建住宅の様子を見に行ったことがあった。その途中の道の一部が砂利道になっていた。雨上がりで泥どろになっていたんだよね。その砂利道で自転車の泥除けに泥が詰まって動かなくなってしまったのよ。非常に難儀でした。砂利で泥道でなんてよっぽどの場所でないと今はない。それが当時は当たり前だったのよ〜。

そんな時代だったから、引越した先の小学校の校舎が鉄筋コンクリート建であったことに感動した❗️広い鉄筋コンクリートの校舎は新しいにおいがした。

その転校した校舎で過ごしたのは卒業までの2〜3年くらいだったか。私はその学校の第4回の卒業生として巣立った。そしてその後、同じ校区の公立中学校に進学する。

その中学でも一桁代の卒業生だった。とにかく新しく歴史の浅い学校で、自分達でこの学校の伝統を作るのだ、という真正面に真面目に思っていたように記憶している。

昭和40年代半ばに引越した戸建住宅は、当時としては比較的珍しい、鉄筋鉄骨の住宅だった。そう言う堅牢な作りの住宅をマイホーム派初代の親みけは選んだのだ。その戸建住宅でみけ子は21歳頃まで過ごした。社会人になって家からは独立したのだ。

その実家に住んだのは、結局10年程度だった。のびのび子育てできる戸建住宅も、子どもが成人すると老夫婦だけが残される運命だ。首都圏に就職した兄みけも地元仙台には戻らなかった。結婚して東京都民になって既に40年以上になる。

その戸建住宅の実家は、その後に親みけが要介護になって私ら家族と同じマンションに引越して来た後、売却した。

売却の手続きの時、認知症が少し入っていた父みけが「この家は自分が苦労して建てた家だ。売りたくない!」と言い出してその場に居た一同、凍り付き顔面蒼白になった、なんて事もあったね💦

初代マイホーム派の親みけは、その家の売却代金をほぼ使い切ってこの世を去った。自分たちで一から築いた財産を自分達でキレイさっぱり使い切ってから旅立った訳だ。ある意味合理的だったとも言える。

マイホームの夢。庶民は会社勤めをして家庭を持ち、ローンを組んで家や最新の家電製品を持つのが夢であったのだ。そんな高度成長期に新しく造成された土地に家を建てて子育てをした両親。右肩上がりの成長がずっとずっと続き、自分たちも健康で長生きして、年金をたっぷりもらって余裕の年金生活を送った後に穏やかにこの世を去ると思っていたみたいだ。その自分達に都合の良い想像は、結局要介護になったために打ち砕かれちゃったけどね。

自分たちが一時期を過ごした実家はもうない。取り壊されてしまった実家は、自分の記憶の中にしか存在しないのだ。

両親を見送ってからはや2年が経った。泥道を自転車で通って難儀したことも遠い昔のことになってしまった。





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