宇多田ヒカルと藤圭子 母から受け継いだ繊細な表現力で世界レベルのアーティストに
宇多田ヒカルのファーストアルバムが発売されたのは、もう既に20数年前になるのか。発売当時、ダンナがCDを買って来て聴いたのが最初だった気がする。
みけ子の世代だと「藤圭子の娘」ってことに驚きを感じた人が多かったんじゃないかな。パッチリと大きな目に母の面影を見る。
あの藤圭子の娘がこんなにアーティストとしての才能があり、世界に打って出られるレベルの音楽を生み出せるのかと驚かされた。デビューアルバムを発売したのが若干16歳という、早咲きの才能のきらめきがまぶしいばかりだった。
宇多田ヒカルの母の藤圭子は、昭和のその時代に生きた人ならば曲を耳にした事がない人はいないだろう。歌謡曲とか演歌の世界で一世を風靡した。歌の上手さとその表現力は、曲とも相まって聴く人の心に深く染み入った。小柄で美しい顔立ちの若い娘が歌う、暗い歌。ハスキーな歌声は一度聞けば耳から離れず、聴く者の心をとらえて離さなかった。そんな類い稀な昭和の歌姫だった。
ある時、職場の青年と藤圭子の事が話題に上ったことがある。「藤圭子って現代で言うと椎名林檎みたいな存在ですか?」って聞かれたけど、いや、違うんだ。あの当時、ヒットした藤圭子の歌は小学生から80代の年寄りまでみんな知っていた。サビの部分ならばきっと当時の日本国民の、ほぼ全ての人が歌えたのではないか。例えが大袈裟に聞こえるが、あの昭和の時代はヒット曲は本当に一世を風靡したし。ラジオでも街頭でもテレビでもすごい勢いでかけられていた。頭に焼き付くくらいに巷でリピートされていたのだ。歌謡曲や巷でヒットした曲が持つ力が、現在とはまるでレベルが違う感じだった。
そんな藤圭子の父母は浪曲師だと聞いたことがある。祖父母→父母→娘と3代で音楽に関わっていて、3代かかって世界レベルで通用する音楽が作れるようになったのか。
宇多田ヒカルのミュージシャンとしての凄さは、いまさら(ただのリスナーでしかないみけ子が)ここで言うまでもない。初めて「Automatic」を聞いた時の衝撃を今も思い出す。
曲も歌詞も全て自ら書き、歌う。聴衆をいっぺんに虜にする、天性の歌声とそれを活かす楽曲のメロディとリズム。恋した時のヒリヒリする感覚を的確に歌詞にのせ、10代の女の子の等身大の言葉を紡ぎ出すその感性。流暢な英語での発音は、洋楽ばかり聞いてきた耳にも心地良く響く。小さい頃から日本だけを舞台にするのではなく、母に連れられてニューヨークと日本を行き来していたらしいから。
藤圭子が亡くなった時、宇多田ヒカルが母の死に関してこんな事を発言していた記憶がある。『いつも急に明日からニューヨークに行ってしばらく住むから、みたいな事を言われて母には振り回されてばかりだった。突拍子もなくて、明日がどうなるか分からない不安な気持ちを抱えて幼少期を過ごした。でも受け継いだ物の大きさには感謝しても仕切れない。母を失った今、その喪失感の大きさに呆然とする。途轍もなく悲しい。あなたを世界で一番愛していた。』
↑TVでだったか、どこで耳にしたかハッキリ覚えていないけど、こんな内容だった気がすると言う結構曖昧な記憶です。
藤圭子の最初の結婚相手だった、同じく演歌歌手の前川清との離婚で、藤圭子の会見をワイドショーを見ていたみけ子の母はこんな感想をもらした。藤圭子ってなんかズレてるって言うか、どっかおかしい感じ。そのかなり後の藤圭子が亡くなった後で、彼女が精神的な疾病にかかっていたらしいことを知った。そんな不安定さがだいぶ前の離婚会見の場面にも現れていたのかね?
宇多田ヒカルの曲の中で「光」と言う曲があった。シングルカットされた曲だ。
これって、彼女の最初の結婚相手のことを歌った歌だろうな、って気がする。
若くて、それほど世の中の事も知らなくて感性がヒリヒリするような鋭さと繊細さで。そんな不安定で世慣れしていない才能のあるキレイな女の子を落とすのなんて、もしかしたら簡単な事だったかも知れない。最初の結婚相手だったK氏は、彼女よりかなり年上だったかと思う。才能ある若くて売れっ子の彼女を夢中にさせるだけの、これまた才能のある素敵な大人だったから。
そんな宇多田ヒカルもデビューして20数年が過ぎた。第一線で活躍し続けて、現在でもリリースされる曲は相変わらず瑞々しさを保ち、ファンを魅力する。母は演歌を歌う歌手としては比較的短命で終わったけれど、娘の彼女には出来るだけアーティストとして息の長い活動をして欲しいと願う。
ちびひめ様、タイトル画を使わせていただきました。素敵なイラストをありがとうございます♬
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