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黒海の記憶#27/変転するアテネ/ギリシャ世界

ペロポネソス戦争(BC431-BC404)をピークとする、仇敵スパルタとアテネの長く続いた確執/抗争は、両都市を著しく疲弊させていた。急伸するマケドニアの前でアテネがひとたまりもなかったのは、そのためだ。B338年カイロネイアの戦いでの敗北は、産業に結び付かない戦争が如何に無駄なものであるかを見事に象徴している。政治屋がする戦争は侭「益」を伴わないことがあり、それが国力を著しく削ぐのである。・・と言いつつ、僕の脳裏にはQTを始めない/さらにQEを続けるであろうアメリカが写っていることは・・余談。

疲弊しきったアテネとアテネの市民/商人にとって、彼らの支配者がマケドニアになったことは「パックス・アレクサンドロス」であり、アテネの市民/商人に平穏と商いの安定をもたらした。しかしアレクサンドロス大王の怪死に乱心した。独立自治の火の手が上がった。しかし結局のところ、その反乱も鎮圧されヘレニズムの時代へ移行していく。

BC146年、そのマケドニアが破竹の勢いで伸びてきたローマとの戦いに敗れる。アテネは自動的なローマ属州総督の管理下に入った。パックス・ロマーナPax Romanaが訪れた。
しかしミトリダテス戦争(BC89)が始まる。アテネはこのときも負け組についた。三度にわたる戦いすべてポントス側についたのだ。
ポントスの戦いはローマの勝利で終わった。ローマ軍総司令官スッラLucius Cornelius Sulla Felixはアテネに入るとギリシャ人を虐殺した。それはミトリダテス六世が小アジアに居たローマ人を虐殺したことの報復だった。・・と言いつつ、僕の脳裏には第一次世界大戦後のトルコ/ギリシャ間に起きた大虐殺が写っていることは・・これも余談。

黒海の西半分/アナトリアの半分を我がものにしたローマの勢いの中で、アテナイに再々度「独立自治の野望」を抱かせるような外国勢がレバント海岸の向こうまで後退したことは、アテネにとって「安定と、別の成長の機会」をもたらしたと言えよう。

初代皇帝であるアウグストゥス(BC63-AD14)が文化の拠点としてのアテネ/ギリシャを庇護するつもりになったのである。こうした「ローマによる平和Pax Romana」はアテネに新しいアイデンティティをもたらしたと言えよう。特にハドリアヌス帝(在位AD117-AD138)はギリシアを偏愛し、在位時代ギリシャ各地を訪ねている。そして都市の再興/再建を精力的に行った。その目覚ましい復興ぶりをパウサニアスが『ギリシア案内記』の中で描いている。

彼は唐突にこう書き始める。
「ギリシア本土からキュクラデス諸島とエーゲ海に向かって突き出しているのがアッティカ地方のスニオン岬である。船旅でやって来てこの岬の沖合を過ぎると,まず港が,ついでその岬の頂のアテナ・スニアスの神殿が見えてくる。さらに海上を行くとかつてアテネの銀山があったあのラウレィオン地方と,それに「バトロクロスの島」と呼ぽれる決して大きくはない無人島も見えてくる(1巻1章1節)。」https://www.amazon.co.jp/%E3.../dp/4003346017/ref=sr_1_4...

ウサニアスはハドリアヌス帝は称賛するが、ほかのローマ皇帝による支配は称賛しない。たとえばローマ軍総司令官スッラについてはこう書く。「ローマ人ならやりかねないと思われる以上に苛酷であった(第1巻20章7節)」パウサニアスの『ギリシア案内記』が旅行記としての面白さを越えて価値があるのは、こうした彼の視座だろう。僕はそう思う。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました