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木挽町新古細工#06/書くために彷徨う朝

起床は、曜日場所関係なく大体朝6時から7時の間です。寝起きは良いほうなので、スパッと布団から出ます。
そのときはたいていまだ家人は夢の中というのが、毎日の背景です。そしてPCと何冊かの本を持って街に出ます。雨でも雪でも快晴でも、寒くても暑くても、これは変わらない。前夜、何時に寝ても同じです。

店を閉めるのが遅くなって帰宅が2,3時になっても、夜中に観はじめた映画が調子に乗って夜が白々として来るまでになっても、起床時間は同じです。
そんな勝手な生き方になれたのは、すっぱりとリタイヤしたおかげです。そんな僕を黙って(黙ってないか )支えてくれ、許してくれている家人には、本当にいくら感謝してもし足りないほどです。だったら「ありがと」と言えば・・と思うんですが。言わないなぁ。日本男子だから。
ははは。そう云う時ばかりは、勝手に日本男子だからね。ちょっとした仕草や言葉に心を込めるだけです。

さて。街に出ます。目当ては銀座の喫茶店です。でもすぐには入らない。実はこれも勝手にルールとして「二時間」と決めているので、必ずその前に一時間ほど散策します。散策の目的は、これから使う「二時間」で何を書くかの方向性を出すためです。

なぜ「二時間」と決めているかと云うと、それがお店の大事な糧を得る場を専有できる限界かな・・と思っているからです。だからお店に入る前に、書きたいことをまとめるために、必ず散策をします。事前に資料から隔離されることは、とても宜しい。歩いてるときは、目の前に資料が並んでないですからね。否でも一歩も二歩も下がって、自分が向かい合っている案件について、客観的に見ることになります。これが大事なんです。

歴史は、軒先に遊ぶモビールに良く似ている。
それぞれ繋がれた板の重さと、繋いだ場所、そして風の流れに変幻自在に動く。歴史も同じです。繋がった・・あるいは繋がれた人々の"都合"と"思い"によって、美しく動きます。そしてその一つ一つの夢幻に変わる動きには、うちに仕込まれた"都合"と"思い"が透けて見えるのです。秘められたダイナミズムとパワーですね。その優雅に見える動きは、じつはまさに"抑制された静なる嵐"です。それを見つめることが温故知新する悦びだと、僕は思う。 枝や葉だけを見て、そこに縛られないために、幹や置かれた場所の"風"をみるために、僕は歩くのです。

でも。モビールの動きは自在なだけに、どれほど美しく動いたとしても瞬く間に消えてしまう。本質を観たと思った稀有な瞬間・・あ!と驚嘆したとしても、次の瞬間には消えてしまう。こころに留めておくことは難しい。
ましてそれを語ることは至難です。
人の視線は単層的で、フッサールの言うとおり意識と云うサーチライトは一点にしか当たらない。キュービズム的にはなれない。なったとしても、ほんの少しの間だけです。

ならば・・紡ぐしかない。言葉を織るしかない。じっくりと手間かけて自分が"観た"瞬間をタペストリーにするしかない。
不器用でも、間違いや綻びが有ったとしても、自分が"観た"変幻自在なモビール"の姿をほんのちょっとでもスナップとして残すには、僕に出来ることは書くことしかない・・と思ったのです。

言葉は3000年間、人々に手渡され続け、消えることがないように守られてきた"ヒトという名の松明"に灯された炎です。僕は、ヒトの長い歴史の中では、短い一夜の宿を得た旅人でしかないけれど、僕もまたそのリレーの端っこに立っていられたら、笑って去っていけるな・・と思うのです。

そんな僕の我がままに半ば呆れながら許してくれている、そして家を支えてくれている家人には感謝するばかりです。あ。でも言わないよ「ありがと」なんてね。恥ずかしいもんね。

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