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ナダールと19世紀パリ#20/ル・ジアン号LeGeant

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ナダールが撮影した航空写真は人々を驚かせた。新聞も雑誌も挙ってそれを掲載した。ナダールは有頂天になった。そして撮影した写真をゴンドラの中で現像し、着陸したらその場で観客に売ると云う商売を思いついた。
1863年、ナダールはこれを現実化するためにゴダール兄弟に相談した。ゴダール兄弟は快諾した。
そして60m(内容積210,000cu ft)という巨大な気球を製作にかかった。膜材を縫うために400人のお針子を雇い、ゴンドラは軽量を図るために柳の枝で組まれたものを作った。その「ル・ジアン号LeGeant」と名付けられた巨大気球には、撮影室/現像室を設けられバルコニーと食事のできる部屋があった。2階建てで50名の観客を乗せることが出来た。寝室まであった。
「ル・ジアン号LeGeant」はパリジャンを驚かせた。

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その一人にジュール・ヴェルヌがいた。後年、ヴェルヌはこの「ル・ジアン号LeGeant」をモデルにした「気球に乗って2週間」という小説を発表している。ちなみに彼の代表作である「月世界旅行」は主人公の名前がardanというが、これはナダールがモデルでnadarを言い換えたものである。
残念ながら「ル・ジアン号LeGeant」は数回の飛行後、墜落し興業/実験は失敗に終わってしまう。
もちろん、そんなことでナダールは挫折しない。
交友を得たジュール・ヴェルヌとともに「空気より重い機械による飛行術推進協会」を創設、次なる巨大気球の製作を行っている。

華々しい活動だった。しかし猛烈に資金が必要な「あそび」だったので、ナダール家はすぐさま困窮に陥った。妻エルネスティンと息子ポールは写真アトリエを守っていたが、とてもナダールが使うお金に追いつかなかった。もちろん、だからといってナダールはめげない。妻エルネスティンも諌めたりはしなかった。

こうして「気球飛ばし」が自己資金で出来る「あそび」でなくなったとき、ナダールはこれを「興業」にすることで利益を得ようとした。彼は友人らに「高々度からの写真撮影」を縷々と語り、興業としての成功を熱く語り、資金集めに奔走した。しかし現実には写真撮影は相当至難だった。・・シャッター速度である。気球は揺れる。風で流される。当時の長い露光時間が必要な写真機ではブレてしまい、見られるような写真は僥倖がない限り撮れなかったのである。ナダールは気球飛ばしとともに、露光時間を如何に短くするかという撮影技術の開発も行わざるを得なかったのである。
そして気球はしばしば墜落した。観客を乗せて「安全」に航行出来るような類いのものではなかった。彼自身も前述の大型気球が墜落したことで、妻エルネスティンと共に大けがをしている。
それでも執念というしかない情熱でナダールは気球で大空を飛ぶことに拘った。
彼の自伝に、最初に気球へ乗った時の言葉が載っている。
「いかなる人間の力も悪の権力も及ばない・・沈黙の空間に吸い込まれ・・人はそこで初めて本当の生を受ける」

ナダールは行動の人だ。行動の中にオノレの存在意義を見出す。それ故に行動することへの躊躇はない。彼にとって成果や結果はニ義でしかない。妻エルネスティンは、ナダールの活々きした精神力の本質が「生み出す/奔る」ことにあると知悉していた。だから彼を諌めることも咎めることもしなかった。長男ポールととともに写真アトリエを守り、彼を支えたのだ。
彼女が「夫の夢を自分の夢にして生きてくれたこと」これは何よりもナダールが得た幸運だったと僕は思う。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました