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シャブリ不撓不屈08/ノルマン人襲撃からの逃避行

フランク王国の北。バルチック界の向こうに北の民(ノルマン人)がいました。ノルマン人は北方ゲルマン人です。舟を操り、川を遡り、フランク王国の要塞都市/修道院を常習的に襲う民でした。
彼らは唐突に北の海からやってきて、海沿い川沿いの町/修道院を焼き、民を殺し、略奪品を持ち去る人々です。支配はしません。徹底的に簒奪するだけです。
その略奪集団を覇権争いをしていた中部フランクと西フランクが、傭兵として雇用したのです。同族と戦うために、蛮族を巻き込む。滅亡したローマと同じ道を辿ったのです。
この蛮族傭兵戦に敗れた中部フランクは、870年に領地を東フランクと西フランクに分割され没落してしまいます。メルセン条約です。
中部フランクを飲み込んで誕生したのが西フランク王国です。その初代国王がシャルル2世Charles II,(シャルル禿頭王le Chauve, der Kahle)です。

こうした揺籃する地へ、北方から絶え間なく侵略を続けるノルマン人の中に、ロローRollo(860-933)と呼ばれる英雄がいました。
911年、ロローはデンマークから海を越えてフランク国に侵攻。破竹の勢いで戦い進み、西の司教座都市・シャルトルChartresを包囲してしまいます。・・このままではパリまで、彼の手に落ちてしまう・・そう危惧した、時の王シャルル3世(単純王)は、ロローを懐柔するために「ノルマンディ公」という称号を与え、彼が大西洋側の土地を「ノルマンディー公国」として支配することを認めました。
シャルル3世は、公国と認める条件として①キリスト教に改宗すること。②公国内に教会/修道院(そしてその技術)を受け入れること、③公国の境界線を守りフランク王国に臣従すること。という三つの条件を出しました。時間をかけて、彼らを"フランス化"する戦略を取ったわけです。ロローはこれを受け入れた。
しかし、それにもかかわらず北の民の略奪は続きました。ノルマン人は、川筋深くフランク国に入り込み、川に隣接する都市を襲った。

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ノルマン人の襲撃に晒された街の一つにトゥールという司教区が有りました。ローヌ川流域中央にある街です。
トゥールは、聖マルチニゥス(サン・マルタン)の街です。サン・マルタンは4世紀に生きた治癒の聖人です。その彼の修道院がトゥールにあった。この古い権威ある大修道院がノルマン人に襲われて、存亡の危機に陥ったのです。

876年。西フランク王国・国王シャルル禿頭王が、窮地に陥った彼らに、避難先としてオーセールから20kmほど離れたスラン渓谷の村シャブリに有ったサン・ジェルマン修道院の分院を与えました。ちなみにこのときの修道院長ウードは、シャルル禿頭王の実弟でした。

オーセールのサン・ジェルマン修道院は、西暦500年代初頭に、クローヴィスの妃クロティルドの指示で建てられたといわれている極めて由緒正しい修道院です。すでにワインの生産が盛んになっていたオーセールには、幾つかの修道院が建てられており、相当量の葡萄畑が周辺地区にも有りました。その分院のひとつがスラン渓谷シャブリ村だったのです。
シャルル禿頭王の指示によって、戦火を逃れたサン・マルタン修道院の修道士たちは、ここで暮すことになった。
もちろん。当然、その分院が持っていた葡萄畑は、サン・マルタン修道院の修道士たちの管理下に入りました。そしてそれは修道院の領内に有るものだけではなく、シャブリ村対岸にある丘陵地帯に有ったものも・・でした。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました