バスク/AOCワイン・イルレギー03
何回か書いているが、地中海側の北、ピレネー山塊を越えた地、ボルドーを含むアキテーヌ地方に葡萄を植えたのは、ローマ帰化人だった。
ローマ帰化人とは、ケルト/ゲルマンなど非ローマ人で、彼らは兵役を終えると、市民権と土地。そして幾許かの賃金をもらった。イベリア半島で戦った非ローマ人兵士は、退役すると、地中海側イベリア半島根元の土地を与えられた。
彼らは与えられた土地に葡萄を植えた。こうした人々が、紀元前200年頃からピレネーを北上し、アキテーヌ側にも葡萄を植えたのである。
ローマは、非ローマ人が葡萄を育てることを禁止していた。したがって、こうしたアキテーヌ地域でも生産者は全てローマ人(元傭兵)だった。実はその傭兵の中に、かなり多数のバスク人がいた。当然、バスク系ローマ帰化人は報酬としての土地を現在のヌーヴェル=アキテーヌ、自分たちの故郷を望んだ。彼らもまた他の元傭兵と同じように、自分の土地に葡萄を植えたのである。
これがフレンチサイドのバスク地方における葡萄栽培の始まりである。
その生産量は決して多くはなかっただろう。そして作られたワインは、すべてそのままボルドーへ送られていたにちがいない。しかし、ローマ人が去り、ゲルマン人が襲来し、そしてフランク人の時代(西暦400年ころ)になると、バスク系ローマ帰化人がボルドーと行っていた交易は殆ど成立しなくなってしまい、同地における葡萄栽培農家は凋落してしまう。
この地で葡萄栽培を行っているのは、ローマ街道の近くに幾つか建てられた修道院だけになってしまう。修道院にとってワインは秘蹟を行うための必須品だから、彼らは必ず葡萄を育てるからだ。
西暦900年頃から、フランク王国が聖地巡礼という人民の「ガス抜き」を採用し始めると、聖ヤコブ(スペイン語でサンティアゴ)の遺骸があるとされたサンティアゴ・デ・コンポステーラは、ローマ、エルサレムと並んで巡礼先として、多くのフランク人たちが訪ねるようになっていった。
彼ら巡礼者は、ローマ人が残した遺産/ローマ街道を利用する。その巡礼者を支えるのが修道院の仕事の一つである。修道院は訪ねる者があれば、これを受け入れ一夜の宿を与え、パンと葡萄酒を供する。
フランス国内から聖地サンチャゴに向かう4つの巡礼路のうち、トゥールの道、リモージュの道、ル・ピュイの道の3つは、オスタバ・アスムで合流し、サン・ジャン・ピエド・ポルで一つになる。そして難所イバニェタ峠を越えてスペイン側へ入る。
こうした巡礼者を守るネットワークが、街道沿いの修道院の間で出来上がったのは西暦1000年代のこと。ピレネー西側にあったロンセスバレス修道院Ronceveauxを中心にして、巡礼者のために広大な葡萄畑をピレネーの尾根を挟んで両側に保持するようになった。
ところが、フランスとスペインを分ける国境が1659年ピレネー条約によって定められると、修道院ネットワークは分断されてしまう。だからといって巡礼者が途絶えるわけではない。巡礼者を支える役目は一般の宿屋が担うようになっていく。
ローマ街道沿いの中継点であるサン・ジャン・ピエ・ド・ポーの現在の姿は、こうして出来上がって行ったのである。
無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました