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バローロ村/バルバレスコ村を訪ねて04

ミラノからピエモンテのバローロ村/バルバレスコ村へ向かうため、Bittoさんが運転する車は夜明け前の高速道路A7/A21/A33を走ります。
暫らく走っていると、次第に夜が明けてくる。高速道路の周囲は広大な農業地帯です。畑や雑木林を低く匐い流れている朝靄が覆っています。まるで世界が象牙色のスープの底に沈んで、静かに眠っているようです。
幻想的です。
この広大な平野が、ポー平原がローマの文明を支えたんでしょうね。灌漑技術と麦を携えたラテン人、ロンバルド人の影を、僕は朝靄の向こうに並ぶ雑木林の中に見たような気がしました。きっとこれが何千年も続いている風景なんでしょうね。暫くの間、夢幻の中に陥ってしまいました。

これから向かうピエモンテ盆地も、そのまま繋がる丘陵地帯ですが、次第に傾斜がきつくアルプス山脈に至る地区です。
A33を走っていくと、朝日が次第に高く上りはじめ、緩やかな畑の斜面や雑木林の彼方にかかっている朝靄も晴れ初めます。そして、高速道路周辺の畑は麦用だけでなく、オリーブ用・他作物、そして斜面に葡萄畑が見え始めます。
葡萄畑は、支え木が整然と並び、それを細紐が荒い網のように繋いでいます。古い昔から続いてきた葡萄の栽培法が、ここにまだ生き残っているのです。

初期ギリシャからの入植者たちは、イタリアをオイノトリアOenotria(葡萄の里)と呼びました。イタリア半島が葡萄栽培に適した理想の土地だったからです。イタリアで葡萄を栽培するのは容易です。そのため、かえって作付け法も醸造法もぞんざいなまま放置され2000年が過ぎてしまいました。
葡萄の作付けは、大半の地方が棚式で、その下に豆類を植えるという方式でした。これは古代ギリシャの方法そのままです。何の工夫もなく改善もなく、統一イタリアが為される19世紀まで放置されてきていたのです。
何故でしょうか?
幾つかの理由が挙げられます。
それは、工夫を要しないほど簡単にワインを栽培できる環境だったこと。幾ども侵略者が夫々の時代に北から侵略してきて畑を戦場に換えてきたこと。その強者どもの夢の跡。踏みにじられた畑に投資できる農民は稀だったのです。
そして最も大きな理由は、イタリアワインは輸出品目になりえなかったことです。イタリア四大交易都市でも、ワインは輸出品目として取り扱いませんでした。スペインにもポルトガルにもフランスにも、はるかに工夫されたワインが存在し、イタリアワインは価格的な競争力を持ちなかったからです。
したがってワインは2000年の間、各都市単位の地産地消の農作物に終始しました。

その数少ない例外として挙げられるのは、フィレンツェです。ルネッサンスがこの地のワインを著しく進化させて、一時は各都市の貴族の間でとても歓迎された時期も有りました。そのワインの交易を支えたのはヴェネツィアです。なにしろベニスの商人たちは、文字通り"何でも"売っていたのです。逆に"何でも"買ったので、イタリアの貴族たちが飲むワインの殆んどがフランスワインになってしまうという嗜虐的な事態に、当時は陥っていたのでした。フィレンツェ・ワインもその大きな潮流の中では大きなマーケットを保持することが出来ず、次第に退化してしまいました。
原因は、農家の頑固なまでの保守性です。彼らはギリシャ以来続いている「分益小作制」以外のものは認めませんでした。そして商人たちに搾取されることにも、伝統的に慣れていた。そのため、彼らは自分たち家族がギリギリ生活できる以上のものを望まず、生産物の品質向上も望まなかったのです。
また同時に、それほどの手間をかけなくても葡萄は育ち、それから作れるワインは雑味はあるが濃厚で甘いものだったので、それ以上何を望むのか?という気風が根強くあり、それが彼らから「向上心」というものを奪い去っていたのです。

アダム・スミスの云う通りです。
パン屋は、良いパンが作りたいから作るわけではない。良いパンの方が売れて儲かるから作るのです。
儲からないなら。搾取されるだけなら・・・そこに良いモノを作ろうという意思は、生まれてこないものです。
これは今の日本の若者にも言えますね。夢がもてない環境で、意欲は生まれない・・その夢が持てない環境を作ったのは今の大人たちです。残念です。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました