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シャブリ不撓不屈05/スラン渓谷

シャブリの東に標高800mのブーヴレー山mont Beuvrayがあります。その麓、モルヴァン自然公園の中に幾つもの交易のための集落が出来上がったのは、紀元前です。彼らは採掘した錫と、ローマ人のワインを物々交換していました。そしてその富が集結し、集落は次第にビブラクテ(Bibracte)と呼ばれるオッピドゥム(城塞都市)になって行きました。

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この地を攻めたのがカエサルです。紀元前58年です。カエサルは森を焼き、軍隊が通れる道(ローマ街道via.romana)を作り、進軍した。圧倒的な物量の差に、同地域のガリア人・ハエドゥイ族は、抵抗も空しく呆気なく制圧されてしまいました。ビブラクテ(Bibracte)は、集約した富と共にカエサルのものになりました。
実はカエサルが最初に『ガリア戦記』を口述筆記させて完成させたのはこの地で、だったのです。いかに彼がこの地の富を狙い、それを手に入れることで自信をつけていったかがよくわかりますね。此処が如何ほどカエサルにとって重要な作戦地区だったか、『ガリア戦記』を辿ると見えてきます。

そして数十年後、25キロメートルほど離れた場所にオータンという新都市が建設されると、簒奪されつくしたビブラクテは、容赦なく放棄されてしまいます。忘れ去られた都市になった。
1800年代後半、近在のワイン商人でアマチュアの歴史研究家だったGabriel Bulliot が発掘するまで、ビブラクテは、まるでシュリーマンの"トロイ"のように地に埋もれた都市だったのです。彼の甥だったJoseph Decheletteが、その意思を継いで発掘を続け「Manuel d'Archeologie」という本を出したことで、ビブラクテは、20世紀に入って世に知られるようになりました。
現在でもこの地は若い考古学者の訓練の場所でもあり、発掘されたビブラクテの遺跡は「ケルト文明博物館Musee de la Civilisation Celtique/71990 St.Leger sous Beuvray France」として同地に保存されています。

そのブーヴレー山mont Beuvrayを源流として、二つの川が北へながれています。東側がスラン川。西側にあるのがヨンヌ川です。
このスランSerein川の畔にシャブリ村。そしてヨンヌYonne川の畔にオーセール司教座都市があります。

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シャブリ村はスラン渓谷の中にひっそりとある人里離れたところです。
しかしそのシャブリ村から直線で20kmほど離れたオーセール司教座都市は違う。ガリアの時代から栄えた町でした。この"司教座都市"というもの。"司教座"というのは、司教が座るための椅子のことです。権威のシンボルでした。
ローマ帝国もフランク王国も、地方統治のために、教区という仕訳を利用しました。そして、その中心都市に司教を派遣し、"司教座都市"としたのです。"司教座都市"は、その地の宗教的・政治的な中心地となった。司教座都市には周辺の荘園から人と物資が集まり、中世の都市の起源となっていきました。

オーセールもシャブリも、新石器時代から人らが暮らし、ガリア人も此処に集落を作りました。理由は前述した2本の川です。この2本の川は500kmほど走って何れもセーヌ川に注いでいます。ケルト(ガリア)人はこれを遡ってきたのです。
ローマ時代になると、錫を求めるローマ人たちが、南からヨンヌ川を下ってきます。そしてオーセールには大きな交易所が出来上がりました。ガリア人が採掘した錫とローマ人が運んできたワインが、ここの市場で物々交換されたのです。

ローマ時代は、カエサルのガリア侵攻後、帝国は軍道(ローマ街道)の造成をガリア全域に網の目のように行います。軍道がパクス・ロマーナだったのです。交易の拠点だったオーセールにもアグリッパ街道が通ります。
"アグリッパ街道"は、将軍アグリッパMarcus Vipsanius Agrippが北へ侵攻した時に作られたものでマルセイユを端として。リヨン→デジョン→オーセール→ランス→英仏海峡のブローニュ・シュル・メールを結ぶラインです。ランスは北の太市の街です。オーセールの物産はアグリッパ街道を利用してデジョンの街で売られ、町は大いに栄えました。つまりオーセールの町は、アグリッパ街道とヨンヌ川という二つの大動脈を持っていたわけです。

この町に修道院が建てられたのはクローヴィス/フランク王国の時代です。統治にキリスト教を利用したフランク王国は、早い時期からこの町に修道院を置きました。既にガリアの時代からローマに馴染んでいたオーセールは、ロマーナ・ガリア人(ローマ人とガリア人の混血)も多く、キリスト教は馴染み深いものでした。なので実は、彼地にはもう大きなブドウ畑が幾つもあった。ヴェネディクト派の修道院はこれを吸収し、さらに拡大進化させて自分たちのものにしたのです。
葡萄畑は先ず修道士自らが開墾し葡萄を植え、その実からワインを醸造しました。それは次第に周辺の農家や修道院の農奴に受け継げられ、葡萄栽培/ワイン作りは産業として確立していったのです。

修道院は、往時最新の情報拠点でした。新しい技術は総て其処にあった。農作用の種子も器械も、耕作の技術も、そして手工業のための道具も、その器械を作る術も総て修道院の独占物でした。自然、人々は修道院の周辺に集まり町は修道院を中心に再構築されていったのです。

こうしてクローヴィスを継いだシャルマーニュ(カール大帝)の時代には教会と修道院が合わせて9つも出来ています。そして、次の千年記に入ると、この地域は隆盛し始めたブルゴーニュ公国のものになります。これがきっかけとなって、同地区のマーケットは遥か北まで広がりました。

実は、中世フランスで、オーセールのワインほど古くから各地で知られているものは他に見当たりません。
そして交易に深く修道院が関わったこともあって、総てが数値管理されており資料として現存しているのです。ボーヌやボルドーでさえ、まだワインの輸出取引に関する文献が存在しない十二世紀の話です。

そして各地の聖職者たちも、オーセールのワインを表現するのに「最高の」とか「もっとも貴重な」と云った形容詞を用いている文献が残されています。パリに在るフランク王家は、この地区のワインを飲んでいた。レスター公とリンカーンの司教とのあいだで交わされた合意書に王印を付し承認したジョン失地王も、1203年ですが、その返礼としてオーセールワインを一樽贈っているのです。

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無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました