見出し画像

シャブリ不撓不屈06/司教座都市へと発展したオーセール

西のパリから180km。北のランスから160km。東のデジョンから160km。この適度な距離感がオーセールという町の独自性を守ったと云えるのではないでしょうか。オーセールはロマーナー・ガリア人を中心にしたローマ相手の交易都市から、フランク王国の司教座都市へと発展しながら、そのマーケットを大きく広げました。
マーケットは、西は王家のあるパリ。北は大市が立つランス。そしてランスを越えてルーアンや英仏海峡へ広がっていました。マルヌ川を遡ってシャンパーニュ地方へ。オワーズ川を経てコンピエーニュへ。そしてコンピエーニュから陸路を経てピカルディー地方、アルトワ地方,フランドル地方,エノー地方へも広がっていたのです。
このことからも、いかにヨンヌ川とローマ街道がこの町を支えた大動脈だったかが窺えます。

主たる特産品はワインでした。ベネディクト派サン・ジェルマン修道院を核として、中世には9つの教会/修道院が有ったといいます。これらがオーセールのワインビジネスを支えていたのです。そして他の産業もすべて教会/修道院が生み出していた。こうした独自性が維持できたのは。前述したようにオーセールが何れの都市からも程々の距離感で離れていた為・・ということでしょうね。

当時のオーセールについて、貴重なラテン語の旅行記が残っていますが、そこには以下のような町の様子が描かれています。「クレモナのガブリエル修道士は、クレモナ、パルマ、モデナが束になってもオーセールのぶどう畑とワインにはかなわない、とわたしに断言したが、わたしは彼の話をまったく信じようとしなかった。そんなことはありえないと思ったのである。
しかしわたし自身がオーセールに滞在したとき、彼の言ったことが本当であり、この町の司教区が所有する広大な土地が山丘陵、平野,田園を問わず、ぶどう畑で覆われていることを目の当たりにし、その事実を認めざるをえなかった。実際にこの地方の人々は麦の種を蒔くことも、刈り入れも、納屋に集めることもしない。かならずパリへたどり着くごく近くにあるヨンヌ川を使って自分たちのワインを送れば十分なのである。パリでワインを売れば、食料や衣服をすっかり賄えるだけの利益があげられるからだ」

画像1

とくに西暦1200年ころから、オーセールはワインの生産地として著しく育ちました。まだブルゴーニュのワインは、河川だけで運ぶことができなかった時代です。ブルゴーニュワインは北のブルゴーニュ公国がマーケットの中心で、そこから先は陸路なために運搬は難渋し、マーケットを巨大化出来ないでいた。この、後代になると俄然登場する、強大なコンペチターを気にかけることもなく、オーセールのワインは「我が世の春」を謳っていたのです。
ワイン畑は、周辺の土地にも急速に拡大しました。
同地の修道士ルブフが残した記録によると「醸造所はワインの圧搾機の数を増やさざるを得なかった。これに対してオーセールの領主オーセール伯ギーは、郊外の領地に新しい圧搾所を建設する場合は、これに課税しようとした。」とあります。しかしワインの圧搾機は教会/修道院の占有利権です。農家は葡萄を教会/修道院へ運び込み、そこで絞ってもらっていたのです。「したがって、司教は頑強にこれに反対し、課税は成功しなかった」とあります。

こうしたワインビジネスの巨大化について、13世紀中葉に生きた修道士サリムペーネが「ヨンヌ川とキュール川の合流地点にクラヴァンの河港をもつ、キュール川にほど近いキルマントンでもワイン作りが行われるようになった。」と残しています。
キルマントンが葡萄栽培で名高かったことは、13世紀のファブリオリ『ワインたちの闘い』の中でも触れられています。これによると12世紀には「最上流の地点から、大修道院や富豪たちが所有していたぶどう畑が、渓谷を下ってバザルヌ、イランシー、サン・ブリ、エスコリーヴへと伸びていた」と有ります。1180年。サン・プリ地区に有った葡萄園は、フランス国王がパリ近郊都市のトリエルに所有していた畑と同規模の葡萄園だったと書かれています。

こうして産業を拡大化していったオーセールですが、そのマーケットは大半がフランス国王領地内でした。オーセールはブルゴーニュ公国に属しています。これはかなりデリケートな問題です。しかし15世紀の終わり、紆余曲折を経てシャルル・テメレール(突進王)の時代に、オーセールはフランス王国のものになることで、事なくを得ています。ルイ11世の治世の時代です。

現在は、オーセールはフランシュ・コンテ地方と合併して、ブルゴーニュ・フランシュ・コンテ地方となっています。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました