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らく町まぼろし散歩#05

有楽町駅前のすし屋横丁の中に「コンボ」というジャズ喫茶が有った。オーナーは川桐徹という方だった。店は1955年に閉めてるから僕は知らない。でも僕らの先輩ジャズ屋が良く口にする名前なので、存在だけは知っていた。小川隆夫が川桐さんにインタビューしてる記事があるからね、もし関心がある方は読んでみてください。実は新橋の「オニックス」にも僕は間に合ってないのです。

ここでは相倉久人先生の「至高の日本ジャズ全史(集英社)」からの引用をします。
『コンサートが終わって会場を出ようとしたとき、誰かが「この近くにジャズのレコードを聴かせる店があるので寄ってみないか」といい出した。
(注:1952年4月に東京で行なわれたジーン・クルーパ・トリオのコンサート)
ちょうど二、三人前を歩いていた牧さん(注:ジャズ評論家の牧芳雄)も誘ってそこへ向かった。
場所はJR有楽町駅前の、中央口と京橋口のちょうど中間点。そのロケーションの利点を、のちにぼくは気障っぽく「ひといきに突っこめば、傘のいらない射程距離内に、その店はあった」と紹介したことがある。
ぼくよりひとつ年上の、小柄な男がマスターの川桐徹。みんなその背格好から「ショーティ」と呼んでいたが、やがてそれがナマって「ショーリさん」になった。初めは店に最新式のSPオートチェンジャー(一〇枚ほどのSP盤をセンタースピンドルに積んでおくと、一枚終わるごと自動的に次の盤がセットされ連続して演奏ができる)を仕込んでいたが、この初回の訪問時にはベニー・グッドマン楽団のカーネギーホールでの演奏(《ライヴ・アット・カーネギーホール一九三八(完全版)》としてCD化)がかかっていたのを思い出す。
やがて「コンボ」にも十インチLPが入り、米アドミラル社製の再生装置に変わった頃から「モダンジャズの店」の看板を掲げるようになった。常連として足繁く通いだすのは、その頃からである。』

有楽町駅前すし屋横丁が撤去させられたのは1965年。東京交通会館と入れ替わりになった。交通会館って地下と三階に、なんともレトロな昭和の店が並ぶだろ? アレはその頃の残り香だ。1965年と言えば東京オリンピックの翌年で、さすがに色濃く根深く銀座に残っていた進駐軍カラーが、次々と拭い去られていった時代である。
母が横須賀から佃に戻ったのは1958年ころ。僕は佃島小学校に編入した。
相当モダンガールだった母は、僕を連れて休日はよく銀座へ出かけた。僕自身はね、銀座散歩、あんまり嬉しくなかった。いつも出掛ける時は、まるでお坊ちゃまみたいな恰好をさせられるからだ。古い写真が何枚か残っているが、まあ小恥ずかしいオメカシぶりだ。・・出かける先は、映画館だったり洋食屋だったり、不二家やウエストみたいなパーラーだったり・・映画はいつも洋画だった。考えてみると、母は未だ30代だったンだなぁ。

銀座にあった「テネシー」が神田小川町に移ったのは1964年。マイルスディビスが来たのもその年。
前にも書いたけど、ガールフレンドだった娘に「音楽はなにか好き?」と言われて、苦し紛れに「ジャズ」といっちまった事件、それでいそいで山野でジミースミスの「ザ・キヤット」のEPを買ってきたら、母に鼻で笑われた事件。あの後だったからだと思う。母は僕を連れてマイルスディビスの公演を聞きに行った。まぁなんだかチンプンカンプンでね、あの時くらいジャズなんぞ好きだなんて言ったこと・・後悔したことはない。


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました