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旅が教えてくれたこと#02: キューバ/アゼルバイジャン/ハンガリー/アマゾン/キプロス/イスタンブル/ラスコー/サントリーニ/北京/セントマーチン


僕が知っているキューバは、今は新市街と呼ばれる地域がまだ未開のままだったころだ。空港で強制的に両替されるキューバドルは、市内の店では殆ど使えなかった。使えるのはホテルの中とそのレストラン/土産物売り場だけだった。
ガイドを頼んだのはホセ・マルティ大学の学生で、僕のNYCの仕事仲間の親戚だった。3日間の滞在中は彼がナビケートしてくれた。なので滞在中の市内での支払いは彼がすべて立て替えてくれた。
「どうしてキューバにいらしゃるつもりになったんですか?」と、最初の日に聞かれた。
実は、このときキューバにはメキシコ・カンクーンから入ったのだ。彼にしてみれば、なぜカンクーンから?という気持ちがあったに違いない。
「コンベンションがあってね。カンクーンに出てたんだよ。実は、エア・キューバに乗りたくてね。それが主目的なんだ」僕が言うと、彼は不思議そうな顔をした。
「この間、エアキューバの旅客機がハイジャックに遭っただろ?」
「・・はい」
「ハイジャックはマイアミに降りたんだ。それをTVがライブで流していてね。何気なく見てたんだけど、ハイジャックされたのがDC3だった。機体にエアロタクシーって書いてあった」
「DC3?なんですか、それ」彼が・・ここではピトと呼ぼう。
「ダグラスの往年の名機さ。レシプロ機の最も美しい作品だ」
「・・はあ」ピトが言った。
「製造年月日はゆうに50年は過ぎてる。それがハイジャックされて、メキシコ湾を飛び越えて、マイアミまで来てたにびっくりしたんだ。で、急いで調べてみたらエアキューバは4機DC3を持ってたんだ。それも全て現役として使ってたんだ。驚いたね。それに乗りに来たんだ」
「・・乗れましたか?」
「乗れた。帰りもそれでカンクーンに帰る」
「はあ・・それは良かったですねぇ」ピトは少し呆れたように言った。そして続けた「NYCの小父からは、米西戦争前後のキューバ独立の史跡を案内するようにと言われてたんですが・・スケジュールを替えたほうがいいですか?」
「いやいやぜひ短い時間だけど、見て歩きたいんでよろしくお願いします」

実はキューバは、カリブ海の中で最も独立が遅れた国だった。プエルトリコもそうだったが・・この二つの島にあったサトウキビプランテーションを管理していたクレオール(白人黒人混血)たちが、きわめて保守的で現状維持を止しとした人々だった。彼らはなによりも、アフリカから運ばれてきた黒人奴隷が反乱することを恐れていた。身近な例としてハイチの独立闘争を見ていたのだ。ハイチで起きた独立運動は、結局のところ黒人奴隷たちの暴動と反乱を招き、白人支配者たちの代弁人であるクレオールの大量虐殺にまで及んだからである。かれらはスペイン軍の常時逗留を強く望み、むしろ各地で広がる独立闘争の鎮圧派遣部隊の駐屯地になっていた。
実は、今となっちゃ想像もできないだろうが・・西インド諸島の中でも、キューバは最もスペインからの植民地独立運動が始まらなかった地区なのだ。1902年5月20日だ。


1-2キューバ/コロンブスという厄災

その最初のサトウキビ・プランテーションは、1650年バルバドス島で始まった。これが濫觴となって、瞬く間に彼処の島でプランテーションが作られていく。 プランテーションから作られる砂糖は、巨大な富となったからだ。
砂糖は、幻惑的な食材だった。
料理を根底から変えてしまった。これほどのショックをヒトの食べ物に与えたのは穀物以来かもしれない。砂糖は殆ど麻薬的な衝撃を人々に与えたのである。

じつはスペインには砂糖を利用した菓子が多い。それは最初に砂糖の魔性に染まったのがこの国だったからかもしれない。そしてイタリアである。イタリアは長い間スペインが支配する地だったからね。

黄金をもとめて大西洋を渡ったコロンブスは、金をスペインにもたらさなかったが、新大陸がサイトウキビのプランテーションとして最適なことを示してくれた。もっとも黄金に魅せられていたコロンブスは、その自分が示した可能性には気が付かなかった。かれは生涯黄金だけを追って死んだ男だ。

ところが、 1500年代後半から始まったブラジルでのプランテーションは、スペイン政府に栽培法・精製法・労働管理・経営管理までのノウハウをもたらした。サトウキビプラテーションの運営ノウハウは、完全にスペイン人たちの手に渡っていたのである。
したがってそれをそのままコロンブスが四苦八苦した地・西インド諸島へ移植することはそれほど至難なことではなかった。
プランテーション経営は、何れの島でも比較的問題なく機能した。・・問題だったのは、外威だけだった。
二匹目のドジョウを狙う国が、スペインの後を追ってカリブの海を跋扈していたのである。
1600年代になると、国力を付け始めたイギリス、フランスも、カリブ海での自前のプランテーションを作り始めたのだ。・・それと海賊行為。イギリス、フランスの海賊たちは、しばしば荷物を満載したスペイン/ポルトガルを襲った。大半がイギリスの私掠船だったが、フランス船もパリコミューン以降は急増し、これら海賊と海上で戦うのがスペイン船団の日常茶飯事になっていたのである。

オランダの独立をかけた30年戦争に伴って、1500年代後半には英西戦争も始まりスペインは次第に疲弊していった。その疲弊に乗じて、イギリス、フランスが自前のプランテーションを彼処に作るようになったのである。もちろんその為に、各所で紛争が起き、占拠・略奪・破壊が起きた。

なぜ、それほど各所にプランテーションを作らなければならなかったのか? ひとつのプランテーションを拡充拡大すれば良いのではないか? 実は、サトウキビ・プランテーションには、重大な問題があったのだ。
同じ場所でサトウキビを作り続けると、土地が痩せきってしまうのだ。サトウキビは成長の早い植物である。土地の栄養分を全て吸い取ってしまう。そして、しまいにはその島を、作物が育たない島にしてしまうのだ
それと燃料。サトウキビの精製には大量の燃料が必要とする。そのために島の原生林を徹底的に伐採しなければならない。結果として、どの島もあっという間に丸裸になってしまったのである。
そして、製造過程に生まれる廃液。これが徹底的に水を汚してしまう。
そのために、何れのプランテーションも、ある時期を過ぎると廃棄され、新しい場所に移るしか方法はなかった。サトウキビを作り、利益を得続けるには、これを繰り返すしかなかったのだ。
煌くような砂糖の甘さは、原住民の絶滅と黒人奴隷の血と汗と涙。そして次から次へと、徹底的に島々の自然の破壊することから、齎されたものだったのである。


1-3キューバ/サトウキビが侵略者と共に来た

さて。このサトウキビという作物の伝播について、少し詳細に書きたい。 サトウキビは、ニューギニアが原産である。これがインドに持ち込まれ、紀元前には既に盛んに栽培された。
元前4世紀にアレキサンダー大王がインドへ侵攻したとき、武将の一人が「その摩訶不思議な甘き作物」を、インドの特産物として報告している。してみると、その時期には中東にも地中海東部にもサトウキビは存在していなかった・・ということになる。
サトウキビを西進させたのはペルシャ人だった。サザン朝ペルシャの時代には、盛んにメソポタミアでも栽培されるようになっていた。
地中海にサトウキビが広がったのは、イスラム帝国が同地を併合した頃からである。そしてシリアを経てエジプトまで。西はシチリア島からマルタ島。そしてモロッコまで栽培地が広がっていった。
この「摩訶不思議な甘き作物」をヨーロッパ人が知ったのは、11世紀末に聖地エルサレムに十字軍が侵略した時からだ。彼らは、この甘き作物に驚嘆し、各々が自らの国へ持ち帰っているが、自国での栽培は全て失敗している。寒冷地でサトウキビは根付かないのだ。
【目次】
はじめに 植草先生のことat TriBeCa
第一章 キューバ/ハイチの夢と光と風
第二章 アゼルバイジャン/BAKUで知ったコリョサラムのこと
第三章 ハンガリーの思い出/Grüene Soßeのこと
第四章 アマゾン中流の町・マナウスの思い出
第五章 キプロスの街ニコシアの、暑い蒸せたレドア通りにて
第六章 イスタンブルの夢
第七章 ラスコーの谷で考えたこと
第八章 サントリーニ島のこと/エーゲ海の空と海の色に染ま.る
第九章 北京逍遥/禁なる紫城を歩く
おわりに サンマルタンで聞いた寓話


無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました