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バスク/AOCワイン・イルレギー04

サンチャゴへ向かう巡礼者の多くは農民だった。当時、農民の大半は荘園主の所有物で農奴だ。土地を離れることは許されていない。それが貨幣経済が確立し始めると、民と領主の関係は大きく揺るぎ始めていく。いわゆる古典荘園から純粋荘園への変移である。農民は農奴と云う安定を失って、自分自身の手で糧を得る手段を求めなければいけなくなってしまうのだ。フランク王国は生活できない/どう生活したら分からない人々が溢れかえってしまった。
こうした人々の不安と不満が聖地への十字軍を生み出した。
民は(大半が農民)は、何も持たないまま「聖地奪還!」を叫びながら、エルサレムを目指した。そして途中、略奪と衝突を繰り返しながら進んだ。結果としてみると、その行軍の中で民の大半は死んでしまう。エルサレムへ辿り着いた者は、ほとんどいなかったという。

ほぼ同時期に表れたのが「聖地巡礼」を目指す民だった。彼らもまた、唐突に生まれ育った土地を放り投げ聖地を目指したのだ。荘園主は不満のはけ口として、こうした聖地巡礼を黙認した。

彼ら巡礼者を支えたのが各地の修道院だった。修道院は一夜の宿とパンとワインを彼らに与えた。西暦1000年を越えて巡礼者が激増すると(世情が不安定になると)救護施設(albergueまたはrefugio)が現れ始める。ローマ街道の中継点に出来上がっていた商人のための宿と重なるように、殆ど無銭のまま聖地へ向かう人々のための救済ネットワークが自然に出来上がっていったのである。

1500年代に入ると、サンチャゴへ向かう巡礼者は年間50万人にも達した。彼らの大半がピレネー山麓東側の中継点ピエド・ポーを通過する。宿場は大いに栄えた。

往時の領主ウルドス子爵Viscount D'Urdosは、ここに大きなビジネスチャンスを見た。彼は葡萄園の拡大を強く進め、ピエド・ポーの周辺に沢山の葡萄園を作っのである。そのひとつがイルレギーIROULEGUY村だった。

実は・・同地が葡萄作りに適している所だった訳ではない。むしろ難しい地帯だ。
多湿な上に、地質は赤い砂岩にジュラ紀石灰岩が混ざったもので、決してワイン畑には適していない。そして山腹の傾斜が強く、開墾は至難だ。農民は、畑を小さく区分して段々状にするしかない。それでも需要が有れば、人々はモノを作る。最盛期には500エーカー以上の葡萄畑が同地域には有ったという。

無くてもいいような話ばかりなんですが・・知ってると少しはタメになるようなことを綴ってみました